管子 / 法家
管子(法家)の名句を、現代語訳と実践の解説つきで。全778句。
斉の桓公を覇者にした宰相・管仲(?〜前六四五)に仮託された論集です。ただし一人の手で書かれた本ではありません。管仲の死後、斉の都・臨淄の稷下に集まった学者たちが数百年かけて書き継ぎ、前漢の劉向が八十六篇に整理しました。うち十篇は失われ、いま読めるのは七十六篇です。統治論、心の学、桓公と管仲の物語、土壌の分類、学舎の作法、そして巻末の経済政策の問答まで、性格のまるで違う文章が一冊に束ねられています。書き出しの一句が、この書の順序を決めています。「倉廩實つれば則ち禮節を知り、衣食足れば則ち榮辱を知る」——礼を説く前に、まず食を足す。国に財が多ければ遠くの人が来て、土地が開ければ民は留まる。徳から始めない、という構えです。同じ牧民篇は続けて四維を挙げます。礼・義・廉・恥。「四維張らざれば、國乃ち滅亡す」。土台を先に置き、そのうえで支柱を立てる、という二段構えでした。心術上下・白心・内業の四篇は、まったく違う顔を見せます。「心の中に又た心有り。意は言に先んじ、意ありて然る後に形あり」——言葉になる前に意があり、意になる前に何かがある。「思いて之を思い、又た重ねて之を思う。思いて通ぜざれば、鬼神將に之を通ぜんとす。鬼神の力に非ざるなり、精気の極みなり」。考え抜いた先で急に通じることを、神秘ではなく精気の極みだと言い切ります。「不言の言」、「靜なれば則ち自ら得ん」。後の道家にも儒家の修養論にも流れ込んだ水源です。桓公と管仲の物語も、繰り返し語られます。鮑叔が自分を退けて管仲を推した場面、管仲が病床で「易牙は自分の子を煮て君に食わせた。豎刁は自分を宮刑にして君に仕えた。人情に背く者を近づけてはいけません」と諫めた場面。桓公はそれを聞き入れて三人を退けながら、三年で呼び戻し、死後は遺体が六十七日置かれて虫が戸口まで這い出しました。同じ話が戒篇・小称篇・桓公問篇に少しずつ形を変えて出てきます。実務の篇も落ちていません。地員篇は土壌を種類ごとに分け、どの土に何が育ち水がどれだけ深いかを並べた古代の土壌誌です。弟子職篇は学舎で弟子がどう朝起き、どう席を勧め、どう食事を出し、どう灯を扱うかを、動作の順に書いた作法書。度地篇は堤防の高さと修繕の時期を、四時・五行篇は季節ごとの政令を扱います。そして巻末の輕重九篇。ここは経済政策の問答集で、この書をほかの古典から分ける部分です。海王篇で桓公が城壁・樹木・家畜・人への課税を次々に挙げると、管仲は四つとも退けて「唯だ山海を官するのみ可なり」と答えます。塩一升にわずかに乗せるだけで、人頭税の倍が集まる。誰も避けようがないからです。国蓄篇の「予うるの形を見わして、奪うの理を見わさず」、「利の一孔より出づる者は、其の國敵無し」。手口はえげつないほど具体的で、他国に絹を織らせて畑を捨てさせ、頃合いで関所を閉じる。楚には鹿を、代には白い狐の皮を、衡山には武具を高く買って、同じことを繰り返します。師導ではこれらを削っていません。仕掛ける側の教科書は、仕掛けられたときに気づくための教科書でもあるからです。法を論じる篇の言い方は、簡潔です。「能は蔽う可からずして、敗は飾る可からざるなり」、「譽むる者も進むる能わず、而して誹る者も退くる能わざるなり」——褒める者も進められず、けなす者も退けられない。語った智は軍や官で試し、功は立場ごとに定義する。人の口が効かない状態を、法によって作るという考え方です。師導では現存七十六篇六百六十三章を七百七十八の章句に収め、底本十五万三千三百四十九字の百パーセントを覆いました。底本は「字は四庫全書本、句読点は維基文庫の標點本から機械転写」という組み方をしています。標點本は句読点が付いている代わりに字が壊れているので、四庫全書本を字の底本に採り、篇ごとに標點本と機械で揃えて句読点だけを移しました。証人には四部叢刊本を立て、揃いは四庫全書本と〇・九九〇六、四部叢刊本と〇・九七七二です。三版が食い違う箇所は七百三十ありますが、数えてみるとそのほとんどは異体字と異文(間と閒が五十二、準と准が三十八、静と靜が三十)だったので、版の違いは直さずに残しました。直したのは四庫本の側が明らかに刷り損じていて、他の二版が一致して別の字を示した一箇所だけです。欠字は白心篇の一字で、二つの証人もその字を欠くので推測では埋めていません。学派は「法家」に置いています。