管子 / 山權數
桓公問管子曰:「輕重準施之矣,筴盡於此乎?」管子曰:「未也。將御神用寶。」桓公曰:「何謂御神用寶?」管子對曰:「北郭有掘闕而得者,此檢數百里之地也。」桓公曰:「何謂得百里之地?」管子對曰:「北郭之得者,令過之平盤之中。君請起十乗之使,百金之提,命北郭得之家曰:『賜若服中大夫。』曰:『東海之子類於託舎於若。賜若大夫之服以終而身,勞若以百金。』之為無貲,而藏諸泰臺,一日而釁之以四牛,立寶曰無貲。還四年,伐孤竹。丁氏之家粟可食三軍之師行五月,召丁氏而命之曰:『吾有無貲之寶於此。吾今將有大事,請以寶為質於子,以假子之邑粟。』丁氏北鄉再拜,入粟,不敢受寶質。
新字:桓公問管子曰:「軽重準施之矣,筴尽於此乎?」管子曰:「未也。将御神用宝。」桓公曰:「何謂御神用宝?」管子対曰:「北郭有掘闕而得者,此検数百里之地也。」桓公曰:「何謂得百里之地?」管子対曰:「北郭之得者,令過之平盤之中。君請起十乗之使,百金之提,命北郭得之家曰:『賜若服中大夫。』曰:『東海之子類於託舎於若。賜若大夫之服以終而身,労若以百金。』之為無貲,而蔵諸泰台,一日而釁之以四牛,立宝曰無貲。還四年,伐孤竹。丁氏之家粟可食三軍之師行五月,召丁氏而命之曰:『吾有無貲之宝於此。吾今将有大事,請以宝為質於子,以仮子之邑粟。』丁氏北郷再拝,入粟,不敢受宝質。
書き下し
桓公管子に問いて曰く、「輕重の準は之を施せり、筴は此に盡くるか」と。管子曰く、「未だし。將に神を御し寶を用いんとす」と。桓公曰く、「何をか神を御し寶を用うと謂う」と。管子對えて曰く、「北郭に掘闕して得る者有り、此れ數百里の地を檢するなり」と。桓公曰く、「何をか百里の地を得と謂う」と。管子對えて曰く、「北郭の得たる者、之を平盤の中に過ぎしめよ。君請う十乗の使い、百金の提を起こし、北郭の得たるの家に命じて曰わしめよ、『若に服中大夫を賜う』と。曰く、『東海の子、若に託舎するに類たり。若に大夫の服を賜いて以て而の身を終えしめ、若を勞うに百金を以てす』と。之を無貲と為して、諸を泰臺に藏し、一日にして之を釁るに四牛を以てし、寶を立てて無貲と曰う。還ること四年にして、孤竹を伐つ。丁氏の家の粟は三軍の師の行くこと五月なるに食らわしむべし。丁氏を召して之に命じて曰く、『吾に無貲の寶此に有り。吾れ今將に大事有らんとす、請う寶を以て子に質と為して、以て子の邑の粟を假らん』と。丁氏北鄉して再拜し、粟を入れて、敢えて寶の質を受けず。
現代語訳
桓公が管子に問うた。値の上げ下げの水準はもう施した。手立てはこれで尽きるのか。管子が言った。まだです。これから神を操り、宝を用います。桓公が言った。神を操り宝を用いるとは何か。管子が答えた。北の郭で掘って何かを掘り当てた者がいます。これは数百里の土地に匹敵します。桓公が言った。百里の土地を得るとはどういうことか。管子が答えた。北郭の男が掘り当てたものを、平らな盤の上に載せさせなさい。君は十乗の使者と百金の贈り物を仕立て、掘り当てた家にこう伝えさせなさい。お前に中大夫の衣服を賜う、と。そして言う。東海の神の子がお前のところに宿ったようなものだ。お前に大夫の服を賜って生涯それを着させ、百金をもってねぎらう、と。これを値がつけられない宝と定め、泰台に納め、一日がかりで四頭の牛の血を塗って清め、宝として無価と名づけます。それから四年たって、孤竹を討つことになった。丁氏の家の粟は、三軍が五か月行軍するあいだ食べさせられるほどある。丁氏を召してこう命じた。私のところに値のつけられない宝がある。これから大きな戦がある。この宝を質としてお前に預け、お前の邑の粟を借りたい、と。丁氏は北を向いて二度拝み、粟を差し出して、宝を質に受け取ろうとはしなかった。
解説
この章句が説くこと
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史記 孝武本紀至)愈えず。游水発根乃ち言ひて曰く、「上郡に巫有り、病みて鬼之に下る。」と。上召して之を甘泉に置きて祠る。病むに及び、人をして神君に問はしむ。神君言ひて曰く、「天子病を憂ふる毋かれ。病少しく愈えなば、彊ひて我と甘泉に会せよ。」と。是に於て病愈え、遂に甘泉に幸す、病良(まこと)に已む。天下に大赦し、寿宮の神君を置く。神君の最も貴き者は(大夫)[太一]、其の佐を大禁・司命の属と曰ひ、皆之に従ふ。見るを得べきに非ず、其の音を聞く、人の言と等し。時に去り時に来たる、来たれば則ち風粛然たり。室の帷中に居る。時に昼言ふ、然れども常に夜を以てす。天子祓ひ、然る後に入る。巫に因りて主人と為し、飲食を関す。欲する所の者言へば行下す。又寿宮・北宮を置き、羽旗を張り、供具を設け、以て神君を礼す。神君の言ふ所、上人をして受けて其の言を書かしめ、之を命じて「画法」と曰ふ。其の語る所は、世俗の知る所なり、絶殊なる者毋し、而して天子独り喜ぶ。其の事秘にして、世知る莫きなり。其の後三年、有司言ふ元は宜しく天瑞を以て命ずべし、宜しく一二を以て数ふべからずと。一元を建元と曰ひ、二元は長星を以て元光と曰ひ、三元は郊して一角の獣を得たるを以て元狩と曰ふと云ふ。其の明年冬、天子雍に郊し、議して曰く、「今上帝は朕親ら郊す、而して后土は祀る毋し、則ち礼答へず。」と。有司太史公・祠官寛舒等と議す、「天地の牲は角繭栗なり。今陛下親ら后土を祀る、后土は宜しく沢中の圜丘に於て五壇を為り、壇ごとに一黄犢の太牢の具、已に祠らば尽く瘞め、而して祠に従ふものは衣黄を上ぶべし。」と。是に於て天子遂に東し、始めて后土の祠を汾陰の脽上に立つること、寛舒等の議の如くす。上親ら望拝すること、上帝の礼の如くす。礼畢り、天子遂に滎陽に至りて還る。雒陽を過ぎ、詔を下して曰く、「三代は邈絶し、遠くして存し難し。其れ三十里の地を以て周の後を封じて周子南君と為し、以て先王の祀を奉ぜしめよ。」と。
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