管子 / 君臣上
是故將與之,惠厚不能供。將殺之,嚴威不能振。嚴威不能振,惠厚不能供,聲實有間也。有善者不留其賞,故民不私其利。有過者不宿其罰,故民不疾其威。威罰之制,無踰於民,則人歸親於上矣。如天雨然,澤下尺,生上尺。是以官人不官,事人不事,獨立而無稽者,人主之位也。先王之在天下也,民比之神明之徳,先王善牧之於民者也。
新字:是故将与之,恵厚不能供。将殺之,厳威不能振。厳威不能振,恵厚不能供,声実有間也。有善者不留其賞,故民不私其利。有過者不宿其罰,故民不疾其威。威罰之制,無踰於民,則人帰親於上矣。如天雨然,沢下尺,生上尺。是以官人不官,事人不事,独立而無稽者,人主之位也。先王之在天下也,民比之神明之徳,先王善牧之於民者也。
書き下し
是の故に將に之に與えんとするに、惠厚も供する能わず。將に之を殺さんとするに、嚴威も振るう能わず。嚴威振るう能わず、惠厚供する能わざるは、聲と實と間有ればなり。善有る者は其の賞を留めず、故に民其の利を私せず。過有る者は其の罰を宿さず、故に民其の威を疾まず。威罰の制、民に踰ゆる無くんば、則ち人上に歸親す。天の雨るが如く然り、澤下ること尺なれば、生ずること上ること尺なり。是を以て人を官して官せず、人に事とせしめて事とせず、獨立して稽うる無き者は、人主の位なり。先王の天下に在るや、民之を神明の徳に比す、先王善く之を民に牧する者なればなり。
現代語訳
与えようとしても、厚い恵みでは足りない。殺そうとしても、厳しい威では振るいきれない。威が振るえず恵みが足りないのは、評判と実際のあいだに隙があるからである。善のある者にはその賞を留め置かない。だから民は自分の利を隠さない。過ちのある者にはその罰を持ち越さない。だから民はその威を憎まない。威と罰の仕組みが民の身の丈を越えなければ、人は上に親しんで帰する。天の雨と同じで、うるおいが一尺下れば、生えるものが一尺上がる。だから人を官につけて自分では官の仕事をせず、人に事をさせて自分では事をせず、ひとり立って照らし合わせる相手がないのが、主の位である。先王が天下にあったとき、民はそれを神明の徳になぞらえた。先王が民をよく牧したからである。
解説
この章句が説くこと
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