管子 / 封禪
襍篇一桓公旣霸,㑹諸侯於葵丘,而欲封禪。管仲曰:「古者封泰山、禪梁父者七十二家,而夷吾所記者十有二焉。昔無懷氏封泰山,禪云云。虙羲封泰山,禪云云。神農封泰山,禪云云。炎帝封㤗山,禪云云。黄帝封泰山,禪亭亭。顓頊封泰山,禪云云。帝嚳封泰山,禪云云。堯封泰山,禪云云。舜封泰山,禪云云。禹封泰山,禪㑹稽。湯封泰山,禪云云。周成王封泰山,禪社首。皆受命然後得封禪。」
新字:襍篇一桓公既覇,会諸侯於葵丘,而欲封禅。管仲曰:「古者封泰山、禅梁父者七十二家,而夷吾所記者十有二焉。昔無懐氏封泰山,禅云云。虙羲封泰山,禅云云。神農封泰山,禅云云。炎帝封㤗山,禅云云。黄帝封泰山,禅亭亭。顓頊封泰山,禅云云。帝嚳封泰山,禅云云。堯封泰山,禅云云。舜封泰山,禅云云。禹封泰山,禅会稽。湯封泰山,禅云云。周成王封泰山,禅社首。皆受命然後得封禅。」
書き下し
襍篇一。桓公既に霸たり、諸侯を葵丘に會して、封禪せんと欲す。管仲曰く、「古者泰山に封じ梁父に禪する者七十二家、而して夷吾の記す所の者十有二なり。昔無懷氏は泰山に封じ、云云に禪す。虙羲は泰山に封じ、云云に禪す。神農は泰山に封じ、云云に禪す。炎帝は泰山に封じ、云云に禪す。黄帝は泰山に封じ、亭亭に禪す。顓頊は泰山に封じ、云云に禪す。帝嚳は泰山に封じ、云云に禪す。堯は泰山に封じ、云云に禪す。舜は泰山に封じ、云云に禪す。禹は泰山に封じ、會稽に禪す。湯は泰山に封じ、云云に禪す。周の成王は泰山に封じ、社首に禪す。皆な命を受けて然る後に封禪するを得たり」と。
現代語訳
〔雑篇の一〕桓公はすでに覇者となり、諸侯を葵丘に集めて、封禅を行おうとした。管仲が言った。昔、泰山に封じ梁父に禅した者は七十二家あり、私が記憶しているのは十二である。昔、無懐氏は泰山に封じ云云に禅した。虙羲は泰山に封じ云云に禅した。神農も炎帝も同じである。黄帝は泰山に封じ亭亭に禅した。顓頊も帝嚳も堯も舜も泰山に封じ云云に禅した。禹は泰山に封じ会稽に禅した。湯は泰山に封じ云云に禅した。周の成王は泰山に封じ社首に禅した。みな天命を受けて、そのうえで封禅ができたのである。
解説
この章句が説くこと
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史記 封禅書其の神或いは歳に至らず、或いは歳に数々来る。来るや常に夜を以てし、光輝流星の若く、東南より来りて祠城に集まり、則ち雄鶏の若く、其の声殷雲として、野鶏夜に雊く。一牢を以て祠り、命じて陳宝と曰ふ。鄜畤を作りて後七十八年、秦の徳公既に立ち、雍に居らんことを卜するに、「後の子孫、馬に河に飲はしめん」と、遂に雍に都す。雍の諸祠、此より興る。三百牢を鄜畤に用ふ。伏祠を作る。狗を邑の四門に磔にし、以て蠱菑を御ぐ。徳公立ちて二年にして卒す。其の後六年、秦の宣公、密畤を渭南に作り、青帝を祭る。其の後十四年、秦の繆公立ち、病みて臥すこと五日にして寤めず。寤むるや、乃ち上帝を夢見るに、上帝、繆公に晋の乱を平げよと命ずと言ふ。史書して之を記し府に蔵す。而して後世皆秦の繆公天に上ると曰ふ。秦の繆公即位して九年、斉の桓公既に覇たり、諸侯に葵丘に会し、封禅せんと欲す。管仲曰く、「古は泰山に封じ梁父に禅する者七十二家、而して夷吾の記す所の者は十有二なり。昔、無懐氏は泰山に封じ、云云に禅す。虙羲は泰山に封じ、云云に禅す。神農は泰山に封じ、云云に禅す。炎帝は泰山に封じ、云云に禅す。黄帝は泰山に封じ、亭亭に禅す。顓頊は泰山に封じ、云云に禅す。帝嚳は泰山に封じ、云云に禅す。堯は泰山に封じ、云云に禅す。舜は泰山に封じ、云云に禅す。禹は泰山に封じ、会稽に禅す。湯は泰山に封じ、云云に禅す。周の成王は泰山に封じ、社首に禅す。皆命を受けて然る後に封禅するを得たり」と。桓公曰く、「寡人、北のかた山戎を伐ち、孤竹を過ぐ。西のかた大夏を伐ち、流沙を渉り、馬を束ね車を懸けて、卑耳の山に上る。南のかた伐ちて召陵に至り、熊耳山に登りて以て江・漢を望む。兵車の会三たび、乗車の会六たび、九たび諸侯を合せ、天下を一匡し、諸侯我に違ふ莫し。昔、三代の命を受くるも、亦何を以てか異ならんや」と。
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史記 封禅書是に於て管仲、桓公の辞を以て窮む可からざるを睹て、因りて之に設くるに事を以てして、曰く、「古の封禅には、鄗上の黍、北里の禾、盛と為す所以なり。江淮の間、一茅三脊、藉と為す所以なり。東海は比目の魚を致し、西海は比翼の鳥を致し、然る後に物の召さずして自ら至る者十有五有り。今、鳳皇・麒麟来らず、嘉穀生ぜずして、蓬蒿・藜莠茂り、鴟梟数々至る。而るに封禅せんと欲するは、毋乃ち不可ならんか」と。是に於て桓公乃ち止む。是の歳、秦の繆公、晋の君夷吾を内る。其の後三たび晋国の君を置き、其の乱を平ぐ。繆公立ちて三十九年にして卒す。其の後百有余年にして、孔子六芸を論述し、伝に略々言ふ、姓を易へて王たり、泰山に封じ梁父に禅する者七十余王、其の俎豆の礼章らかならず、蓋し之を言ひ難し、と。或ひと禘の説を問ふ。孔子曰く、「知らず。禘の説を知る者の天下に於けるや、其れ掌を視るがごとし」と。詩に云ふ、紂位に在り、文王命を受くるも、政泰山に及ばず。武王殷に克ちて二年、天下未だ寧からずして崩ず。爰に周の徳の洽きは維れ成王、成王の封禅は則ち之に近し。後に陪臣政を執るに及び、季氏泰山に旅す、仲尼之を譏る。是の時、萇弘、方を以て周の霊王に事ふ。諸侯周に朝する莫く、周の力少なし。萇弘乃ち鬼神の事を明らかにし、貍首を射ることを設く。貍首とは、諸侯の来らざる者なり。物怪に依りて以て諸侯を致さんと欲す。諸侯従はず、而して晋人、萇弘を執へて殺す。周人の方怪を言ふ者は萇弘よりす。其の後百余年、秦の霊公、呉陽の上畤を作りて黄帝を祭り、下畤を作りて炎帝を祭る。後四十八年、周の太史儋、秦の献公に見えて曰く、「秦は始め周と合ひ、合ひて離れ、五百歳にして当に復た合ふべし。合ひて十七年にして覇王出でん」と。
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『管子』封禪桓公曰く、「寡人北のかた山戎を伐ち、孤竹を過ぐ。西のかた大夏を伐ち、流沙を涉り、馬を束ね車を懸けて、卑耳の山に上る。南のかた伐ちて召陵に至り、熊耳山に登りて、以て江・漢を望む。兵車の會三、而して乘車の會六。九たび諸侯を合わせ、一たび天下を匡し、諸侯我に違う莫し。昔三代命を受くるも、亦た何を以て異ならんや」と。是に於いて管仲は桓公の辭を以て窮む可からざるを睹て、因りて之に設くるに事を以てして曰く、「古の封禪は、鄗上の黍、北里の禾、以て盛と為す所なり。江・淮の間、一茅三脊、以て藉と為す所なり。東海は比目の魚を致し、西海は比翼の鳥を致し、然る後に物の召さずして自ら至る者十有五なり。今鳯凰麒麟來たらず、嘉榖生ぜずして、蓬蒿藜莠茂り、鴟梟數々至るに、而も封禪せんと欲す、乃ち不可なる毋からんや」と。是に於いて桓公乃ち止む。
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史記 封禅書古より命を受くる帝王、曷ぞ嘗て封禅せざらん。蓋し其の応無くして事を用ふる者有り、未だ符瑞の見はるるを睹て泰山に臻らざる者有らざるなり。命を受くと雖も功至らず、梁父に至るも徳洽からず、洽きも日に給するに暇あらず、是を以て事に即くこと用て希なり。伝に曰く、「三年礼を為さざれば、礼必ず廃る。三年楽を為さざれば、楽必ず壊る」と。世の隆んなる毎に、則ち封禅もて焉に答へ、衰ふるに及びて息む。厥の曠遠なる者は千有余載、近き者は数百載、故に其の儀は闕然として堙滅し、其の詳らかなるは得て記し聞く可からずと云ふ。尚書に曰く、舜、璇璣玉衡に在りて、以て七政を斉ふ。遂に上帝に類し、六宗に禋し、山川を望し、群神に遍くす。五瑞を輯め、吉月日を択びて、四岳・諸牧に見え、瑞を還す。歳の二月、東に巡狩して、岱宗に至る。岱宗は泰山なり。柴し、山川に望秩す。遂に東后に覲ゆ。東后とは諸侯なり。時月を合せ日を正し、律・度・量・衡を同じくし、五礼を修め、五玉・三帛・二生・一死を贄とす。五月、巡狩して南岳に至る。南岳は衡山なり。八月、巡狩して西岳に至る。西岳は華山なり。十一月、巡狩して北岳に至る。北岳は恒山なり。皆岱宗の礼の如くす。中岳は嵩高なり。五載に一たび巡狩す。禹、之に遵ふ。後十四世、帝孔甲に至りて、徳に淫し神を好み、神瀆れ、二龍之を去る。其の後三世、湯、桀を伐ち、夏の社を遷さんと欲するも、可ならず、夏社を作る。後八世、帝太戊に至りて、桑穀の廷に生ずる有り、一暮にして大いに拱し、懼る。伊陟曰く、「妖は徳に勝たず」と。太戊、徳を修め、桑穀死す。伊陟、巫咸を賛し、巫咸の興ること此より始まる。後十四世、帝武丁、傅説を得て相と為し、殷復た興り、高宗と称す。雉の鼎の耳に登りて雊く有り、武丁懼る。祖己曰く、「徳を修めよ」と。武丁之に従ひ、位以て永く寧し。
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史記 封禅書其の来年冬、上議して曰く、「古は先づ兵を振ひ旅を沢し、然る後に封禅す」と。乃ち遂に北のかた朔方を巡り、兵十余万を勒し、還りて黄帝の冢を橋山に祭り、兵を須如に釈く。上曰く、「吾聞く、黄帝は死せずと。今冢有るは、何ぞや」と。或ひと対へて曰く、「黄帝已に僊して天に上り、群臣其の衣冠を葬る」と。既に甘泉に至り、且に泰山に事を用ひんとするが為に、先づ太一に類祠す。宝鼎を得しより、上、公卿諸生と封禅を議す。封禅は用ふること希にして曠絶し、其の儀礼を知る莫し。而して群儒、封禅・尚書・周官・王制の望祀・射牛の事を采る。斉人丁公、年九十余、曰く、「封禅とは、不死の名に合するなり。秦の皇帝は上りて封ずるを得ず。陛下必ず上らんと欲せば、稍く上れば即ち風雨無く、遂に上りて封ぜん」と。上是に於て乃ち諸儒をして射牛を習はしめ、封禅の儀を草せしむ。数年にして、且に行はんとするに至る。天子既に公孫卿及び方士の言を聞くに、黄帝以上の封禅は、皆怪物を致して神と通ず。黄帝以上に放ひて神僊人・蓬萊の士に接し、世に高くして徳を九皇に比せんと欲し、而して頗る儒術を采りて以て之を文る。群儒既已に封禅の事を辨明する能はず、又詩書の古文に牽拘せられて騁する能はず。上、封禅の祠器を為りて群儒に示す。群儒或いは曰く「古と同じからず」と。徐偃又曰く「太常の諸生の礼を行ふは魯の善きに如かず」と。周霸、属りて封禅の事を図る。是に於て上、偃・霸を絀け、而して尽く諸儒を罷めて用ひず。三月、遂に東のかた緱氏に幸し、中岳の太室に礼登す。従官山下に在りて、「万歳」と言ふ有るが若きを聞くと云ふ。上に問へば、上は言はず。下に問へば、下は言はず。是に於て三百戸を以て太室の奉祠に封じ、命じて崇高邑と曰ふ。東のかた泰山に上る。泰山の草木、葉未だ生ぜず。乃ち人をして石を上げて之を泰山の巓に立てしむ。上遂に東のかた海上を巡り、八神を礼祠す。
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史記 封禅書其の秋、上、雍に幸し、且に郊せんとす。或ひと曰く、「五帝は太一の佐なり。宜しく太一を立てて上親ら之を郊すべし」と。上疑ひて未だ定めず。斉人公孫卿曰く、「今年宝鼎を得、其の冬辛巳朔旦冬至、黄帝の時と等し」と。卿に札書有りて曰く、「黄帝、宝鼎を宛朐に得て、鬼臾区に問ふ。鬼臾区対へて曰く、『黄帝、宝鼎・神策を得たり。是の歳、己酉朔旦冬至、天の紀を得、終りて復た始まる』と。是に於て黄帝、日を迎へ策を推し、後率ね二十歳にして復た朔旦冬至、凡そ二十推、三百八十年にして、黄帝僊して天に登る」と。卿、所忠に因りて之を奏せんと欲す。所忠、其の書の経ならざるを視、其の妄書なるを疑ひ、謝して曰く、「宝鼎の事は已に決せり、尚ほ何を以て為さん」と。卿、嬖人に因りて之を奏す。上大いに説び、乃ち卿を召して問ふ。対へて曰く、「此の書を申公に受く。申公は已に死す」と。上曰く、「申公は何人ぞや」と。卿曰く、「申公は斉人なり。安期生と通じ、黄帝の言を受く。書無く、独り此の鼎書有り。曰く『漢興りて復た黄帝の時に当る』と。曰く『漢の聖者は高祖の孫且つ曾孫に在り。宝鼎出でて神と通じ、封禅す。封禅せし七十二王、唯黄帝のみ泰山に上りて封ずるを得たり』と。申公曰く、『漢の主も亦当に上りて封ずべし。上りて封ずれば能く僊して天に登らん。黄帝の時、万諸侯ありて、神霊の封は七千に居る。天下の名山八、而して三は蛮夷に在り、五は中国に在り。中国は華山・首山・太室・泰山・東萊、此の五山は黄帝の常に游び、神と会する所なり。黄帝且つ戦ひ且つ僊を学ぶ。百姓の其の道を非とする者を患へ、乃ち鬼神を非とする者を断斬す。百余歳にして然る後に神と通ずるを得たり。黄帝、雍に上帝を郊し、宿すること三月。鬼臾区、号して大鴻と曰ひ、死して雍に葬る、故に鴻冢是れなり。其の後、黄帝、万霊を明廷に接す。明廷とは甘泉なり。

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