管子 / 侈靡
「政與教孰急?」管子曰:「夫政教相似而殊方。若夫教者,摽然若秋雲之逺,動人心之悲;藹然若夏之靜雲,乃及人之體;然若謞之靜,動人意以怨;蕩蕩若流水,使人思之。人所生往,教之始也,身必備之。辟之若秋雲之始見,賢者、不肖者化焉。敬而待之,愛而使之,若樊神山祭之。賢者少,不肖者多,使其賢,不肖惡得不化?今夫政則少則,若夫成形之徵者也。去則少,可使人乎?」
新字:「政与教孰急?」管子曰:「夫政教相似而殊方。若夫教者,摽然若秋雲之遠,動人心之悲;藹然若夏之静雲,乃及人之体;然若謞之静,動人意以怨;蕩蕩若流水,使人思之。人所生往,教之始也,身必備之。辟之若秋雲之始見,賢者、不肖者化焉。敬而待之,愛而使之,若樊神山祭之。賢者少,不肖者多,使其賢,不肖悪得不化?今夫政則少則,若夫成形之徴者也。去則少,可使人乎?」
書き下し
「政と教といずれか急なる」と。管子曰く、「夫れ政と教とは相似て方を殊にす。夫の教なる者の若きは、摽然として秋雲の逺きが若く、人心の悲しみを動かす。藹然として夏の靜雲の若く、乃ち人の體に及ぶ。然として謞の靜かなるが若く、人の意を動かすに怨を以てす。蕩蕩として流水の若く、人をして之を思わしむ。人の生じて往く所、教の始めなり、身必ず之を備う。之を辟うれば秋雲の始めて見るるが若く、賢者・不肖者焉に化す。敬して之を待ち、愛して之を使うこと、神山を樊いて之を祭るが若し。賢者少なく、不肖者多し、其の賢を使わば、不肖惡んぞ化せざるを得んや。今夫れ政は則ち少く則り、夫の形を成すの徵の若き者なり。去れば則ち少なし、人を使う可けんや」と。
現代語訳
政と教と、どちらが急ぐべきか。管子が言った。政と教は似ていて向きが違う。教のほうは、遠くの秋の雲のようにくっきりとして、人の心の悲しみを動かす。夏の静かな雲のようにやわらかく漂って、人の体にまで及ぶ。笛の音がやんだあとのように、人の思いを恨みで動かす。流れる水のようにゆったり広がって、人にそれを思わせる。人が生まれて向かっていく先、そこが教のはじまりであり、まず自分の身に備えていなければならない。たとえるなら秋の雲が出はじめたようなもので、賢い者も愚かな者もそれによって変わる。敬って待ち、愛して使うのは、神の山を囲って祭るようなものである。賢い者は少なく、愚かな者は多い。その賢い者を使えば、愚かな者もどうして変わらずにいられよう。いまの政のほうは、決まりが少なく、形になった証拠のようなものだ。それを取り去れば残るものは少ない。それで人を使えるだろうか。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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孫子・虚実篇故に前に備うれば則ち後寡なく、後に備うれば則ち前寡なし。左に備うれば則ち右寡なく、右に備うれば則ち左寡なし。備えざる所無ければ、則ち寡なからざる所無し。寡なき者は人に備うる者なり、衆き者は人をして己に備えしむる者なり。
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葉隠・聞書第一覺りの士というのは、事に逢って仕(し)たるように、前方に、それぞれの仕様(しよう)を吟味し置いて、その時に出合い、仕果(しはた)す者である。不覺の士というのは、その時に至って前方に穿鑿せぬのは、不覺の士と申す。
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孟子・公孫丑章句上孟子曰く、「仁なれば則ち榮え、不仁なれば則ち辱めらる。今辱めらるるを惡んで不仁に居るは、是れ猶ほ濕を惡んで下きに居るがごときなり。如し之を惡まば、徳を貴びて士を尊ぶに如くは莫し。賢者位に在り、能者職に在り、國家閒暇なりとせん。是の時に及びて其の政刑を明らかにせば、大國と雖も、必ず之を畏れん。詩に云う、『天の未だ陰雨せざるに迨(およぶ)んで、彼の桑土を徹(とる)り、牖(ユウ)戶を綢繆す。今此の下民、敢て予を侮どること或らんや。』孔子曰く、『此の詩を為りし者は、其れ道を知れるか。』能く其の國家を治めば、誰か敢て之を侮らん。今國家閒暇なりとせん。是の時に及んで般樂怠敖せば、是れ自ら禍を求むるなり。禍ᐻは己自り之を求めざる者無し。詩に云う『永く言、命を配し、自ら多ᐻを求む。』太甲に曰く、『天の作せる孼は猶ほ違く可し。自ら作せる孼は活く可からず。』此を之れ謂うなり。」
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