管子 / 水地
是故具者何也?水是也。萬物莫不以生,唯知其託者能為之正。具者,水是也。故曰:水者何也?萬物之本原也,諸生之宗室也,美惡賢不肖愚俊之所產也。何以知其然也?夫齊之水道躁而復,故其民貪麤而好勇。楚之水淖弱而清,故其民輕果而賊。越之水濁重而洎,故其民愚疾而垢。秦之水泔最而稽,滯而雜,故其民貪戾,㒺而好事齊。晉之水枯旱而運,墆而雜,故其民諂諛葆詐,巧佞而好利。燕之水萃下而弱,沈滯而襍,故其民愚戇而好貞,輕疾而易死。宋之水輕勁而清,故其民閒易而好正。是以聖人之化世也,其解在水。故水一則人心正,水清則民心易。一則欲不汚民心易則行無邪。是以聖人之治於世也,不人告也,不户說也,其樞在水。
新字:是故具者何也?水是也。万物莫不以生,唯知其託者能為之正。具者,水是也。故曰:水者何也?万物之本原也,諸生之宗室也,美悪賢不肖愚俊之所産也。何以知其然也?夫斉之水道躁而復,故其民貪麤而好勇。楚之水淖弱而清,故其民軽果而賊。越之水濁重而洎,故其民愚疾而垢。秦之水泔最而稽,滞而雑,故其民貪戻,㒺而好事斉。晋之水枯旱而運,墆而雑,故其民諂諛葆詐,巧佞而好利。燕之水萃下而弱,沈滞而襍,故其民愚戇而好貞,軽疾而易死。宋之水軽勁而清,故其民閒易而好正。是以聖人之化世也,其解在水。故水一則人心正,水清則民心易。一則欲不汚民心易則行無邪。是以聖人之治於世也,不人告也,不戸説也,其枢在水。
書き下し
是の故に具なる者は何ぞや。水是れなり。萬物以て生ぜざるは莫し、唯だ其の託する所を知る者のみ能く之が正を為す。具なる者は、水是れなり。故に曰く、水なる者は何ぞや。萬物の本原なり、諸生の宗室なり、美惡賢不肖愚俊の產する所なり。何を以て其の然るを知るや。夫れ齊の水は道躁にして復す、故に其の民は貪麤にして勇を好む。楚の水は淖弱にして清し、故に其の民は輕果にして賊なり。越の水は濁重にして洎す、故に其の民は愚疾にして垢し。秦の水は泔最にして稽り、滯りて雜なり、故に其の民は貪戾、㒺にして事を好みて齊し。晉の水は枯旱にして運り、墆りて雜なり、故に其の民は諂諛葆詐、巧佞にして利を好む。燕の水は萃下にして弱く、沈滯して襍なり、故に其の民は愚戇にして貞を好み、輕疾にして死し易し。宋の水は輕勁にして清し、故に其の民は閒易にして正を好む。是を以て聖人の世を化するや、其の解は水に在り。故に水一なれば則ち人心正しく、水清ければ則ち民心易し。一なれば則ち欲汚れず、民心易ければ則ち行い邪無し。是を以て聖人の世を治むるや、人ごとに告げざるなり、戸ごとに説かざるなり、其の樞は水に在り。
現代語訳
だから、すべてを備えているものとは何か。水である。万物でそれによって生まれないものはない。ただその拠りどころを知る者だけが、それを正しくできる。備えているのは水である。だから言う、水とは何か。万物のもとであり、生きるものの本家であり、美しいものも醜いものも賢い者も愚かな者もそこから生まれる。なぜそう分かるのか。斉の水は流れが急でまた戻る。だからその民は貪って荒く、勇を好む。楚の水はやわらかく清い。だからその民は身軽で思い切りがよく、そこなうこともある。越の水は濁って重くよどむ。だからその民は愚かで気短で、垢じみている。秦の水はにごって滞り、混じり合っている。だからその民は貪って荒っぽく、事を起こすのを好んで揃う。晋の水は乾いてめぐり、たまって混じっている。だからその民はへつらい偽り、巧みに言い繕って利を好む。燕の水は下に集まって弱く、沈み滞って混じっている。だからその民は愚直で貞しさを好み、身軽で死をおそれない。宋の水は軽く強く清い。だからその民は穏やかで正しさを好む。だから聖人が世を変えるとき、その解き方は水にある。水が一つであれば人の心は正しく、水が清ければ民の心は素直である。一つであれば欲は汚れず、心が素直であれば行いに邪がない。だから聖人が世を治めるとき、人ごとに告げず、家ごとに説かない。そのかなめは水にある。
解説
この章句が説くこと
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『呻吟語』内篇・修身・入る所を慎み、接する所を慎む廟に入れば敬を期せずして自ら敬し、朝に入れば肅を期せずして自ら肅たり。是を以て君子は入る所を慎むなり。嚴師を見れば則ち收斂し、狎友を見れば則ち放恣なり。是を以て君子は接する所を慎むなり。
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『墨子』所染子墨子、染絲する者を見て歎じて言いて曰く、「蒼に染むれば則ち蒼く、黄に染むれば則ち黄なり。入るる所の者變ずれば、其の色も亦た變ず。五たび入れて已に五色と為る。故に染は慎まざる可からざるなり」と。
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『講孟余話』滕文公下 第六章「一薛居州、独り宋王を如何せん」。此の章の義極めて明白、比喩極めて的切、而して到底又此の一句に帰す。然れども是れ独り人君の知るべきのみに非ず。卿大夫士に至るまで、争臣争友少なくては、善をなすこと甚だ難し。更に一転して思ふに、心の存する所、身の行ふ所、接する所の事、翫ぶ所の芸、皆善に非ざることなくば、何を以て不善の人たらんや。故に云ふ、「小人間居して不善をなす」と。不善の萌しは必ず無事による者なれば、是れを思ひて、身を孝悌文武の内に漸漬して、他念を生ずるに暇なくすべし。是れ亦荘嶽に置くの意なり。
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『呻吟語』外篇・品藻・至此不為君子、真小人なり君子事に當たれば、則ち小人も皆な君子と為る。此に至りて君子と為らざるは、真の小人なり。小人事に當たれば、則ち中人も皆な小人と為る。此に至りて小人と為らざるは、真の君子なり。
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『新書』保傅秦に及びて然らず、其の俗は固より辞譲を貴ぶに非ず、上ぶ所は告訏なり。固より礼義を貴ぶに非ず、上ぶ所は刑罰なり。趙高をして胡亥に傅きて之に獄を教えしめ、習う所は人を斬劓するに非ざれば、則ち人の三族を夷するなり。故に今日位に即き、明日人を射、忠諫する者は之を誹謗と謂い、深く之が為に計る者は之を妖言と謂い、其の人を殺すを視ること艾草菅の若く然り。豈に胡亥の性悪ならんや。其の之を集め道く所以の者、理に非ざる故なり。
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孟子・滕文公章句下孟子、戴不勝に謂いて曰く、「子は子の王の善ならんことを欲するか。我明らかに子に告げん。此に楚の大夫有らんに、其の子の齊語せんことを欲すれば、則ち齊人をして諸に傅たらしめんか。楚人をして諸に傅たらしめんか。」曰く、「齊人をして之に傅たらしめん。」曰く、「一齊人之に傅たるも、衆楚人之を咻せば、雖日に撻(むちうつ)ちて其の齊たらんことを求むと雖も、得可からず。引いて之を莊嶽の間に置くこと數年ならば、日に撻ちて其の楚たらんことを求むと雖も、亦た得可からず。子、薛居州を善士と謂い、之をして王の所に居らしむ。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州ならば、王は誰と與にか不善を為さん。王の所に在る者、長幼卑尊、皆薛居州に非ざれば、王は誰と與にか善を為さん。一薛居州、獨り宋王を如何せん。」 <語釈> ○「咻」、音はキュウ、義はかまびすしくすること。○「莊嶽」、顧炎武云う、莊は是れ街の名、嶽は是れ里の名。

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