管子 / 形勢解
淵者,衆物之所生也,能深而不涸,則沈玉至。主者,人之所仰而生也,能寛裕純厚而不苛忮,則民人附。父母者,子婦之所受教也,能慈仁教訓而不失理,則子婦孝。臣下者,主之所用也,能盡力事上,則當於主。子婦者,親之所以安也,能孝弟順親,則當於親。故淵涸而無水,則沈玉不至。主苛而無厚,則萬民不附。父母暴而無恩,則子婦不親。臣下隨而不忠,則卑辱困窮。子婦不安親,則禍憂至。故淵不涸則所欲者至,涸則不至。故曰:「淵深而不涸,則沈玉極。」
新字:淵者,衆物之所生也,能深而不涸,則沈玉至。主者,人之所仰而生也,能寛裕純厚而不苛忮,則民人附。父母者,子婦之所受教也,能慈仁教訓而不失理,則子婦孝。臣下者,主之所用也,能尽力事上,則当於主。子婦者,親之所以安也,能孝弟順親,則当於親。故淵涸而無水,則沈玉不至。主苛而無厚,則万民不附。父母暴而無恩,則子婦不親。臣下随而不忠,則卑辱困窮。子婦不安親,則禍憂至。故淵不涸則所欲者至,涸則不至。故曰:「淵深而不涸,則沈玉極。」
書き下し
淵なる者は、衆物の生ずる所なり、能く深くして涸れざれば、則ち沈玉至る。主なる者は、人の仰ぎて生くる所なり、能く寛裕純厚にして苛忮ならざれば、則ち民人附く。父母なる者は、子婦の教を受くる所なり、能く慈仁教訓して理を失わざれば、則ち子婦孝なり。臣下なる者は、主の用うる所なり、能く力を盡くして上に事うれば、則ち主に當たる。子婦なる者は、親の以て安んずる所なり、能く孝弟にして親に順えば、則ち親に當たる。故に淵涸れて水無ければ、則ち沈玉至らず。主苛にして厚き無ければ、則ち萬民附かず。父母暴にして恩無ければ、則ち子婦親しまず。臣下隨いて忠ならざれば、則ち卑辱困窮す。子婦親を安んぜざれば、則ち禍憂至る。故に淵涸れざれば則ち欲する所の者至り、涸るれば則ち至らず。故に曰く、「淵深くして涸れざれば、則ち沈玉極まる」と。
現代語訳
淵は多くのものが生まれるところであり、深くて涸れなければ、沈める玉が供えられる。主は人が仰いで生きるところであり、ゆったりして厚く、とげとげしくなければ、民は寄ってくる。父母は子と嫁が教えを受けるところであり、慈しみ仁をもって教え、筋を外さなければ、子と嫁は孝になる。臣下は主が用いるところであり、力を尽くして上に仕えれば、主にかなう。子と嫁は親が安らぐもとであり、孝と悌で親に従えば、親にかなう。だから淵が涸れて水がなければ、沈める玉は供えられない。主がとげとげしくて厚みがなければ、民は寄らない。父母が荒々しくて恩がなければ、子と嫁は親しまない。臣下が従うだけで忠がなければ、卑しめられ辱められ行き詰まる。子と嫁が親を安んじなければ、禍と憂いが来る。だから淵が涸れなければ望むものが来て、涸れれば来ない。だから、淵が深くて涸れなければ沈める玉が至る、という。
解説
この章句が説くこと
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