管子 / 形勢解
棟生橈不勝任則屋覆,而人不怨者,其理然也。弱子,慈母之所愛也,不以其理動者下瓦,則慈母笞之。故以其理動者,雖覆屋不為怨。不以其理動者,下瓦必笞。故曰:「生棟覆屋,怨怒不及。弱子下瓦,慈母操箠。」行天道,出公理,則逺者自親。廢天道,行私為,則子母相怨。故曰:「天道之極,逺者自親;人事之起,近親造怨。」古者武王地方不過百里,戰卒之衆不過萬人,然能戰勝攻取,立為天子,而世謂之聖王者,知為之之術也。桀、紂貴為天子,富有海内,地方甚大,戰卒甚衆,而身死國亡,為天下僇者,不知為之之術也。故能為之,則小可為大,賤可為貴;不能為之,則雖為天子,人猶奪之也。故曰:「巧者有餘,而拙者不足也。」
新字:棟生橈不勝任則屋覆,而人不怨者,其理然也。弱子,慈母之所愛也,不以其理動者下瓦,則慈母笞之。故以其理動者,雖覆屋不為怨。不以其理動者,下瓦必笞。故曰:「生棟覆屋,怨怒不及。弱子下瓦,慈母操箠。」行天道,出公理,則遠者自親。廃天道,行私為,則子母相怨。故曰:「天道之極,遠者自親;人事之起,近親造怨。」古者武王地方不過百里,戦卒之衆不過万人,然能戦勝攻取,立為天子,而世謂之聖王者,知為之之術也。桀、紂貴為天子,富有海内,地方甚大,戦卒甚衆,而身死国亡,為天下僇者,不知為之之術也。故能為之,則小可為大,賤可為貴;不能為之,則雖為天子,人猶奪之也。故曰:「巧者有余,而拙者不足也。」
書き下し
棟生にして橈み任に勝えざれば則ち屋覆るも、人怨みざるは、其の理然ればなり。弱子は、慈母の愛する所なり、其の理を以て動かざる者瓦を下せば、則ち慈母之を笞つ。故に其の理を以て動く者は、屋を覆すと雖も怨みと為さず。其の理を以て動かざる者は、瓦を下せば必ず笞たる。故に曰く、「生棟屋を覆すも、怨怒及ばず。弱子瓦を下せば、慈母箠を操る」と。天道を行い、公理を出だせば、則ち逺き者も自ら親しむ。天道を廢し、私為を行えば、則ち子母も相怨む。故に曰く、「天道の極、逺き者も自ら親しむ。人事の起こり、近親も怨みを造る」と。古者武王は地方百里に過ぎず、戰卒の衆万人に過ぎず、然れども能く戰い勝ち攻め取り、立ちて天子と為り、世之を聖王と謂うは、之を為すの術を知ればなり。桀・紂は貴くして天子と為り、富みて海内を有ち、地方甚だ大に、戰卒甚だ衆きも、身死し國亡び、天下の僇と為るは、之を為すの術を知らざればなり。故に能く之を為せば、則ち小も大と為る可く、賤も貴と為る可し。之を為す能わざれば、則ち天子と為ると雖も、人猶お之を奪うなり。故に曰く、「巧なる者は餘り有り、而して拙なる者は足らざるなり」と。
現代語訳
生木の棟がたわんで重さに耐えられず家が倒れても、人が怨まないのは、それが理だからである。幼い子は慈しむ母が愛する相手だが、理によらずに動いて屋根瓦を落とせば、慈しむ母もその子を打つ。だから理によって動く者は、家を倒しても怨まれない。理によらずに動く者は、瓦を落とせば必ず打たれる。だから、生木の棟が家を倒しても怨みや怒りは及ばず、幼い子が瓦を落とせば慈しむ母が鞭を取る、という。天の道を行い、公の理を出せば、遠い者も自分から親しむ。天の道を廃し、私のふるまいを行えば、子と母でさえ怨み合う。だから、天の道の極みでは遠い者も自分から親しみ、人の事の起こりでは近い親族も怨みを作る、という。昔、武王の土地は四方百里を超えず、兵は一万人を超えなかった。それでも戦って勝ち攻め取り、立って天子となり、世が聖王と呼ぶのは、そうするやり方を知っていたからである。桀と紂は貴くて天子となり、富んで海内を保ち、土地はとても大きく兵はとても多かったのに、身は死に国は滅び、天下の恥さらしとなったのは、そうするやり方を知らなかったからである。だから、それができれば小さくても大きくなれ、賤しくても貴くなれる。できなければ、天子であっても人に奪われる。だから、巧みな者には余りがあり、拙い者には足りない、という。
解説
この章句が説くこと
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『弁名』理氣人欲孟子も亦た弁を好みて、先王孔子の言はざる所の者を言ひて以て人を喩さんと欲す。故に曰く、「理義の我が心を悦ばすは、猶ほ芻豢の我が口を悦ばすがごとし」と。但だ其の義を以て連言する者は、孔子の沢未だ斬えざるのみ。宋の諸老先生に至りて、千載の後に生まれ、其の志を操ること鋭く、直ちに聖人為らんことを求むるも、其の道を得ざるなり。古言に昧くして其の説を得ざるなり。独り孟子の読み易きが若きを喜びて、諸を己が心に求むれば、則ち諸を其の理に求めざるを得ず。是れ其の理を以て第一義と為す者は、勢の必ず至る所なり。
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『慎思録』巻之二大学或問に曰く、天下の物は、必ず各々其の然る所以の故と、其の当に然るべき所の則と有り。所謂理なり、と。愚謂ふ、当に然るべき所の者は、理の見易き者なり。所謂粗なり。然る所以の者は、理の見難き者なり。所謂精なり。夫れ理は一なり。其の表裏精粗有るを以て、二者の別有り。
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『学則』答屈景山書宋儒の伝注は、唯理を其の心に求めて以て之を言ふ。夫れ理なる者は定準無き者なり。聖人の心は得て測るべからず。唯聖のみ聖を識る。宋儒の為す所、豈に倨らざらんや。不佞は則ち敢へてせず。夫れ道は則ち高し美し。譾劣の資は企て及ぶべからず。故に卑卑焉として諸を事と辞とに求む。其の心に謂へらく、儒者の業は、唯古の聖人の書を守りて以て後世に詔ぐ、其れ斯れ可なりと。後賢の説は高妙なりと雖も、其の事辞に於いて合はざる有り。何を以て其の聖人の心と道とに於いて必ず合ふを知らんや。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如たり。且つ聖人の教へは天下に被る。天下の人、愚と不肖と亦た夥しいかな。故に卑卑焉たる者も、何ぞ必ずしも聖人の指に盭らんや。是れ不佞の心なり。
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『都鄙問答』卷之二・或學者、商人ノ學問ヲ譏ノ段曰く、汝は理を直ちに命と云ふ、是大いに誤れり。理は玉の理なり。又総て物の理なれば、通るまでのことにて死物なり。命は、書経にも、惟れ命は常に于てせずと云へり。天の降せる命なれば、活物の性なり。斯くのごとく別なり。然るを、死活を以て一致とするは如何なることぞ。
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『弁名』理氣人欲夫れ理は事物皆之れ有り。故に理は繊細なる者なり。宋儒の意、其の細を合すれば以て其の大を成すべしと謂ふ。豈に其れ然らんや。銖銖にして之を求むれば、鈞に至りて差ふ。寸寸にして之を求むれば、丈に至りて差ふ。何となれば、凡人の見る所は小にして、聖人の見る所は大なり。見る所大なれば、則ち小なる者遺れず。聖人の及ぶべからざる所以なり。人苟も聖人の教に循ひて其の大なる者を得れば、則ち小なる者自ら失はず。其れ或いは之を失ふと雖も、亦た大害無し。何となれば、其の大なる者を失はざるが故なり。大なる者は何ぞ。礼と義と是れなり。聖人の極を立つる所なり。宋儒の理を尚ぶ、其の究は聖人を師とせずして自ら用ふるに帰す。是れ其の失する所以なり。
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『童子問』卷中問ふ、理の字何の故に生生化化の原と為すに足らざるか。曰く、理は本死字なり。物に在りて物を宰すること能はず。生物に在りては生物の理有り、死物には死物の理有り。人には則ち人の理有り、物には則ち物の理有り。然れども一元の気之が本と為りて、理は則ち気の後に在り。故に理は以て万化の枢紐と為すに足らざるなり。万物は五行に本づき、五行は陰陽に本づく。再び推して陰陽の然る所以に至れば、則ち之を理に帰せざること能はず。既に理に帰すれば、則ち自ら虚無に陥らざること能はず。所謂万法一に帰す、一何れの所にか帰す、是れなり。此れ常識の必ず此に至る所以にして、聖人と自ら相違ふなり。惟だ聖人のみ能く天地の一大活物にして、理の字を以て之を尽くすべからざることを識る。故に彖に之を賛して曰く、大いなるかな乾元、至れるかな坤元と。至れり尽くせり。若し天地の真に活物なることを知らば、汝に許す、即身即ち伏犠なることを。

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