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管子 / 侈靡

問曰:「古之時與今之時同乎?」曰:「同。」「其人同乎?不同乎?」曰:「不同。可與政其誅。俈、堯之時,混吾之美在下,其道非獨出人也。山不童而用贍澤不弊而養足。耕以自養,以其餘應良天子,故平。牛馬之牧不相及,人民之俗不相知,不出百里而來足。故卿而不理,靜也。其獄一踦腓、一踦屨而當死。今周公斷指滿稽,斷首滿稽,斷足滿稽,而死民不服,非人性也,敝也。地重人載,毁敝而養不足,事末作而民興之,是以下名而上實也。聖人者,省諸本而游諸樂。大昬也,博夜也。」

新字:問曰:「古之時与今之時同乎?」曰:「同。」「其人同乎?不同乎?」曰:「不同。可与政其誅。俈、堯之時,混吾之美在下,其道非独出人也。山不童而用贍沢不弊而養足。耕以自養,以其余応良天子,故平。牛馬之牧不相及,人民之俗不相知,不出百里而来足。故卿而不理,静也。其獄一踦腓、一踦屨而当死。今周公断指満稽,断首満稽,断足満稽,而死民不服,非人性也,敝也。地重人載,毁敝而養不足,事末作而民興之,是以下名而上実也。聖人者,省諸本而游諸楽。大昏也,博夜也。」

書き下し

問いて曰く、「古の時と今の時と同じきか」と。曰く、「同じ」と。「其の人は同じきか、同じからざるか」と。曰く、「同じからず。與に其の誅を政す可し。俈・堯の時、混吾の美下に在り、其の道獨り人を出だすに非ざるなり。山童ならずして用贍り、澤弊れずして養足る。耕して以て自ら養い、其の餘を以て良天子に應ず、故に平らかなり。牛馬の牧相及ばず、人民の俗相知らず、百里を出でずして來たり足る。故に卿にして理めざるは、静かなればなり。其の獄は一踦の腓、一踦の屨にして死に當たる。今周公は指を斷つこと稽に滿ち、首を斷つこと稽に滿ち、足を斷つこと稽に滿つるも、死民服せざるは、人性に非ざるなり、敝るればなり。地重く人載せ、毁敝して養足らず、末作を事として民之を興す、是を以て名を下にして實を上にするなり。聖人なる者は、諸を本に省きて諸を樂に游ぶ。大昬なり、博夜なり」と。

現代語訳

問うて言った。昔の時といまの時は同じか。答えた。同じである。ではその人は同じか、同じでないか。答えた。同じではない。だから刑の当て方も、そこから正せる。帝俈や堯の時代には、混じり合った美しさが下にあり、その道はただ人から出たものではなかった。山は丸裸にならず用は足り、沢は荒れず養いは足りた。耕して自分を養い、余った分を良き天子に納めた。だから平らかだった。牛馬の放牧は互いに行き合わず、人々の習わしは互いに知られず、百里を出ないうちに必要なものが集まった。だから卿がいても治める必要がなかった。静かだったからである。その裁きは、片方のふくらはぎ、片方の履き物ほどのことで死に当たった。いま周公は、指を斬ることが台に満ち、首を斬ることが台に満ち、足を斬ることが台に満ちても、死んでいく民が従わない。人の性が変わったのではない。世が擦り切れたのである。土地は重く人を載せ、崩れ擦り切れて養いが足りず、末の仕事を業として民がそれを盛んにする。だから名が下になり、実が上になった。聖人は本のところを省いて楽しみのところに遊ぶ。大きな暗がりであり、広い夜である。

解説

侈靡篇の始まりで、昔と今は同じかという問いから入ります。時は同じでも人は同じでない、と。堯の時代は山も沢も荒れず、百里を出ずに用が足り、卿がいても治める必要がなかった。いまは指も首も足も斬るのに、死んでいく民が従わない。人の性が変わったのではなく、世が擦り切れたのだ、という診立てでした。名が下になり実が上になった、とも言います。

この章句が説くこと

古の時と今の時と同じきか其の人は同じからず山童ならずして用贍り沢弊れずして養足る百里を出でずして来たり足る故に卿にして理めざるは静かなればなり死民服せざるは人性に非ざるなり敝るればなり時代消耗

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