淮南子 / 雑家
淮南子(雑家)の名句を、現代語訳と実践の解説つきで。全767句。
前漢の淮南王劉安(前一七九〜前一二二)が、集めた賓客とともに編ませた論集です。武帝に献上され、当時は『鴻烈』と呼ばれました。内篇二十一巻——原道訓から泰族訓までの二十篇と、巻末に全篇の解題と諸子百家の起源を置く要略。道家の言葉で書かれていますが、兵法も統治術も暦も地理も逸話集も入っており、漢書藝文志はこれを雑家に分類しました。呂氏春秋と並ぶ、その代表です。說山訓と說林訓の二篇は、短い断章だけでできています。「一臠の肉を嘗めて一鑊の味を知る」、「一葉の落つるを見て歲の將に暮れんとするを知る」、「短綆は以て深きを汲む可からず」、「三寸の管にして當無ければ、天下も滿たす能わず」。器の大きさではなく底が抜けているかどうか、という見方です。要略はこの二篇のねらいを「百事の壅遏を竅窕穿鑿す」——詰まりに穴を穿つことだと書いています。脈絡なく並んでいるように見えるのは、意図された作りでした。人間訓は、禍と福が入れ替わる話ばかりを集めた篇です。「人間万事塞翁が馬」の出典はここで、四度にわたって人々が弔い、祝い、また弔うたびに、父は「此れ何遽ぞ福と爲らざらんや」と同じ形で答えます。楽羊は我が子の羹をすすって中山を落とし、功を立てたその日から主君に信じられなくなりました。秦西巴は命令に背いて子鹿を逃がして追放され、一年後に主君の子の守り役に呼び戻されます。「千里の隄も、螻螘の穴を以て漏る」も、「人は山に蹪かずして、蛭に蹪く」も、この篇の言葉です。脩務訓は、この書のなかで最も熱を帯びた篇です。「無為」を何もしないことだと解する者への反論で、神農は百草を自分の舌で試して一日に七十回中毒し、禹は長雨で髪を洗い烈風で櫛けずったと並べます。「狂者に憂い無く、聖人も亦た憂い無し。其の無爲は則ち同じくして、其の無爲たる所以は則ち異なる」。何もしていない姿は達人も怠け者も同じに見えるが、理由がまるで違う、と。そして「跬步 休まざれば、跛鱉も千里」「藜藿の生ずるや日に數寸を加うるも、以て櫨棟と爲す可からず。楩楠豫章の生ずるや、七年にして而る後に知る」。伸びが見えないことと、伸びていないことは違います。統治を論じる篇では、法の位置がはっきり定められています。「法なる者は、治の具なり。而れども治を爲す所以に非ざるなり」——弓矢は的に中てる道具だが、弓矢が中てるのではない。「法は能く不孝なる者を殺すも、人をして孔・曾の行を爲さしむる能わず」。法にできるのは下限を切ることだけで、上を引き上げることはできない。それでも「法無くんば以て治を爲す可からざるなり」と、両方を欠かしません。扁鵲が貴ばれるのは処方の腕ではなく病がどこから生じたかを知るからだ、という一段が、この書の姿勢を示しています。巻末の要略は、諸子の学がなぜ生まれたかを状況から説き起こします。太公望の謀は文王が弱いまま強暴を制そうとしたから、墨子の節葬は禹の治水の現場から、管子の書は土地が狭く民が知巧に富む斉から、商鞅の法は名誉で動かず賞と刑で動く秦から、申不害の刑名は古い礼と新しい法が同時にあって役人が何に従えばよいか分からなくなった韓から。思想を人格の産物ではなく、状況への応答として並べています。そして自らについては「一跡の路に循い、一隅の指を守り……世と推移せざるに非ざるなり」と書き、原道篇の道の定義と同じ言葉で閉じました。「之を尋常に置きて塞がらず、之を天下に布きて窕からず」。師導では内篇二十一巻四百七十章を七百六十七の章句に収め、底本十五万七千九百六十八字の百パーセントを覆いました。底本は「字は四庫全書本、句読点は維基文庫の標點本から機械転写」という組み方をしています。標點本は句読点が付いている代わりに字が壊れているので、『淮南鴻烈解(四庫全書本)』を字の底本に採り、巻ごとに標點本と機械で揃えて句読点だけを移し、食い違った位置は四庫本の字を残しました。証人には四部叢刊本を立てています。組み上げた後、全章を走査して漢字と句読点以外の文字が残っていないかを機械で検め、十五箇所(ひらがなの混入、私用領域の字、ASCII の版面記号)を証人に当たって直しました。そのうち三箇所は証人の側も欠字だったので□のまま残し、訳に〔一字を欠く〕と書いて推測では埋めていません。学派は「雑家」に置いています。呂氏春秋と同じ棚で、二書は同じ作り方の前後の対になります。