淮南子 / 脩務訓
若夫以火熯井,以淮灌山,此用己而背自然,故謂之有為。若夫水之用舟,沙之用鳩,泥之用輴,山之用蔂,夏瀆而冬陂,因高為田,因下為池,此非吾所謂為之。聖人之從事也,殊體而合於理,其所由異路而同歸,其存危定傾若一,志不忘於欲利人也。
新字:若夫以火熯井,以淮灌山,此用己而背自然,故謂之有為。若夫水之用舟,沙之用鳩,泥之用輴,山之用蔂,夏瀆而冬陂,因高為田,因下為池,此非吾所謂為之。聖人之従事也,殊体而合於理,其所由異路而同帰,其存危定傾若一,志不忘於欲利人也。
書き下し
夫の火を以て井を熯し、淮を以て山に灌ぐが若きは、此れ己を用いて自然に背く。故に之を有爲と謂う。夫の水に舟を用い、沙に鳩を用い、泥に輴を用い、山に蔂を用い、夏に瀆して冬に陂し、高きに因りて田と爲し、下きに因りて池と爲すが若きは、此れ吾が所謂 之を爲すに非ざるなり。聖人の事に從うや、體を殊にして理に合し、其の由る所 路を異にして歸を同じくす。其の危を存し傾を定むること一の若く、志は人を利せんと欲するを忘れざるなり。
現代語訳
火で井戸を乾かし、淮の水を山に注ぐようなことは、自分の考えを押し通して自然に背いている。だからこれを有為という。水では舟を使い、砂地では橇を使い、泥では泥舟を使い、山では畚を使い、夏に水路を通して冬に堤で溜め、高いところは田にし、低いところは池にする。こういうことは、私の言う「為す」ではない。聖人が事に従うときは、やり方は違っても理に合い、通る道は違っても行き着く先は同じである。危ういものを存続させ、傾いたものを立て直すやり方は一つのようであり、志は人を利したいということを忘れない。
解説
「有為」の悪さは、働きかけたことではなく、地形に逆らったことです。井戸を火で乾かし、川の水を山へ上げる。水では舟、泥では泥舟、山では畚——道具を場所に合わせるほうは、いくら手を動かしても有為とは呼ばれない。高いところは田、低いところは池。何をするかではなく、何に従っているかで分かれます。
この章句が説くこと
火を以て井を熯し淮を以て山に灌ぐが若きは此れ己を用いて自然に背く故に之を有為と謂う水に舟を用い沙に鳩を用い泥に輴を用い山に蔂を用う夏に瀆して冬に陂し高きに因りて田と為し下きに因りて池と為す聖人の事に従うや体を殊にして理に合し其の由る所路を異にして帰を同じくす志は人を利せんと欲するを忘れざるなり順理
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