淮南子 / 要略
《齊俗》者,所以一群生之短修,同九夷之風氣,通古今之論,貫萬物之理,財制禮義之宜,擘畫人事之終始者也。《道應》者,攬掇遂事之蹤,追觀往古之跡,察禍福利害之反,考驗乎老莊之術,而以合得失之勢者也。
新字:《斉俗》者,所以一群生之短修,同九夷之風気,通古今之論,貫万物之理,財制礼義之宜,擘画人事之終始者也。《道応》者,攬掇遂事之蹤,追観往古之跡,察禍福利害之反,考験乎老荘之術,而以合得失之勢者也。
書き下し
齊俗なる者は、群生の短修を一にし、九夷の風氣を同じくし、古今の論に通じ、萬物の理を貫き、禮義の宜しきを財制し、人事の終始を擘畫する所以の者なり。道應なる者は、遂事の蹤を攬掇し、往古の跡を追觀し、禍福利害の反を察し、老莊の術に考驗して、以て得失の勢に合する者なり。
現代語訳
斉俗篇は、生きとし生けるものの短い長いを一つに見、九つの異民族の風気を同じものとして扱い、古今の議論に通じ、万物の理を貫き、礼義のふさわしさを裁量して定め、人の事の始めと終わりを描き分けるためのものである。道応篇は、済んだ事の跡を拾い集め、過ぎ去った昔の跡をたどって見、禍福と利害が裏返る有りようを観察し、老荘の術に照らして確かめ、得失の勢いに合わせるものである。
解説
斉俗篇は違いを一つに見る篇、道応篇は昔の事例で理屈を検める篇。「老莊の術に考驗して、以て得失の勢に合する」——道家の理屈を、実際の歴史で突き合わせて確かめる、という書き方です。抽象の篇と事例の篇が交互に置かれているのが、この書の設計だと分かります。
この章句が説くこと
斉俗なる者は群生の短修を一にし九夷の風気を同じくす古今の論に通じ万物の理を貫き礼義の宜しきを財制す道応なる者は遂事の蹤を攬掇し往古の跡を追観す禍福利害の反を察す老荘の術に考験して以て得失の勢に合する者なり斉俗
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