淮南子 / 齊俗訓
是故不法其已成之法,而法其所以為法。所以為法者,與化推移者也。夫能與化推移為人者,至貴在焉爾。故狐梁之歌可隨也,其所以歌者不可為也;聖人之法可觀也,其所以作法不可原也;辯士言可聽也,其所以言不可形也。淳均之劍不可愛也,而歐冶之巧可貴也。今夫王喬、赤誦子,吹嘔呼吸,吐故內新,遺形去智,抱素反真,以游玄眇,上通雲天。今欲學其道,不得其養氣處神,而放其一吐一吸,時詘時伸,其不能乘雲升假亦明矣。
新字:是故不法其已成之法,而法其所以為法。所以為法者,与化推移者也。夫能与化推移為人者,至貴在焉爾。故狐梁之歌可随也,其所以歌者不可為也;聖人之法可観也,其所以作法不可原也;弁士言可聴也,其所以言不可形也。淳均之剣不可愛也,而欧冶之巧可貴也。今夫王喬、赤誦子,吹嘔呼吸,吐故内新,遺形去智,抱素反真,以游玄眇,上通雲天。今欲学其道,不得其養気処神,而放其一吐一吸,時詘時伸,其不能乗雲升仮亦明矣。
書き下し
是の故に其の已に成るの法に法らずして、其の法を為す所以に法る。法を為す所以の者は、化と推移する者なり。夫れ能く化と推移して人と為る者は、至貴 焉に在るのみ。故に狐梁の歌は隨う可きも、其の歌う所以の者は為す可からず。聖人の法は觀る可きも、其の法を作る所以は原づく可からず。辯士の言は聽く可きも、其の言う所以は形どる可からず。淳均の劍は愛す可からずして、歐冶の巧は貴ぶ可し。今夫れ王喬・赤誦子は、吹嘔呼吸し、故きを吐き新しきを內れ、形を遺れ智を去り、素を抱き真に反り、以て玄眇に游び、上は雲天に通ず。今 其の道を學ばんと欲して、其の氣を養い神に處るを得ずして、其の一吐一吸、時に詘み時に伸ぶるを放うも、其の雲に乘り升假する能わざること亦た明らかなり。
現代語訳
だからできあがった法に倣うのではなく、その法を作ったやり方に倣う。法を作るやり方というのは、変化とともに移り動くものである。変化とともに移り動いて人であり得る者にこそ、至って貴いものがある。だから狐梁の歌はついて歌えても、彼が歌えた理由のほうは真似できない。聖人の法は見られても、その法を作った拠りどころはたどれない。弁士の言葉は聞けても、その言えた理由はかたちにできない。淳均の名剣は愛でるほどのものではなく、それを作った歐冶の技のほうが貴い。いま王喬や赤誦子は、息を吹き吸い、古い気を吐いて新しい気を入れ、かたちを忘れ知恵を去り、素朴を抱いて真に返り、奥深いところに遊び、上は雲と天に通じている。いまその道を学ぼうとして、気を養い心を置くところを得ないまま、ただ一つ吐き一つ吸い、屈んだり伸びたりを真似ても、雲に乗って昇れないのは明らかである。
解説
この章句が説くこと
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『淮南子』齊俗訓故に大路龍旂、羽蓋垂緌、結駟連騎 有れば、則ち必ず穿窬拊楗、抽箕踰備の姦 有り。詭文繁繡、弱緆羅紈 有れば、必ず菅屩跐踦、短褐 完からざる者 有り。故に高下の相い傾くや、短脩の相い形るや、亦た明らかなり。夫れ蝦蟆は鶉と為り、水蠆は𧐟莣と為る。皆な其の類に非ざるものを生ず。唯だ聖人のみ其の化を知る。夫れ胡人は黂を見て、其の以て布と為す可きを知らず。越人は毳を見て、其の以て旃と為す可きを知らず。故に物に通ぜざる者は、與に化を言い難し。