淮南子 / 原道訓
夫喜怒者,道之邪也;憂悲者,德之失也;好憎者,心之過也;嗜欲者,性之累也。人大怒破陰,大喜墜陽;薄氣發瘖,驚怖為狂;憂悲多恚,病乃成積;好憎繁多,禍乃相隨。故心不憂樂,德之至也;通而不變,靜之至也;嗜欲不載,虛之至也;無所好憎,平之至也;不與物散,粹之至也。能此五者,則通於神明。通於神明者,得其內者也。是故以中制外,百事不廢;中能得之,則外能收之。中之得,則五藏寧,思慮平,筋力勁強,耳目聰明,疏達而不悖,堅強而不鞼,無所大過而無所不逮,處小而不逼,處大而不窕,其魂不躁,其神不嬈,湫漻寂寞,為天下梟。
新字:夫喜怒者,道之邪也;憂悲者,徳之失也;好憎者,心之過也;嗜欲者,性之累也。人大怒破陰,大喜墜陽;薄気発瘖,驚怖為狂;憂悲多恚,病乃成積;好憎繁多,禍乃相随。故心不憂楽,徳之至也;通而不変,静之至也;嗜欲不載,虚之至也;無所好憎,平之至也;不与物散,粋之至也。能此五者,則通於神明。通於神明者,得其内者也。是故以中制外,百事不廃;中能得之,則外能収之。中之得,則五蔵寧,思慮平,筋力勁強,耳目聰明,疏達而不悖,堅強而不鞼,無所大過而無所不逮,処小而不逼,処大而不窕,其魂不躁,其神不嬈,湫漻寂寞,為天下梟。
書き下し
夫れ喜怒なる者は、道の邪なり。憂悲なる者は、德の失なり。好憎なる者は、心の過ちなり。嗜欲なる者は、性の累なり。人大いに怒れば陰を破り、大いに喜べば陽を墜す。薄氣は瘖を發し、驚怖は狂を為す。憂悲恚多ければ、病乃ち積を成す。好憎繁く多ければ、禍乃ち相い隨う。故に心憂樂せざるは、德の至りなり。通じて變ぜざるは、靜の至りなり。嗜欲載せざるは、虛の至りなり。好憎する所無きは、平の至りなり。物と散ぜざるは、粹の至りなり。能く此の五つの者あらば、則ち神明に通ず。神明に通ずる者は、其の内を得たる者なり。是の故に中を以て外を制すれば、百事廢れず。中能く之を得れば、則ち外能く之を收む。中の得れば、則ち五藏寧く、思慮平らかに、筋力勁強に、耳目聰明に、疏達して悖らず、堅強にして鞼れず、大いに過ぐる所無くして逮ばざる所無く、小に處りて逼らず、大に處りて窕ならず、其の魂躁がず、其の神嬈れず、湫漻寂寞として、天下の梟と為る。
現代語訳
そもそも喜びと怒りは、道のよこしまである。憂いと悲しみは、徳の欠けである。好き嫌いは、心の過ちである。欲は、本性の重荷である。人は大いに怒れば陰を破り、大いに喜べば陽を落とす。気が薄れれば声を失い、驚き恐れれば狂う。憂い悲しみ怒ることが多ければ、病はやがて塊となる。好き嫌いが多ければ、禍いが次々と付いてくる。だから心が憂えも楽しみもしないのは、徳の極みである。通じていて変わらないのは、静の極みである。欲を載せないのは、虚の極みである。好き嫌いがないのは、平らかさの極みである。物とともに散らないのは、純粋さの極みである。この五つができれば、神明に通じる。神明に通じる者は、その内を得た者である。だから内で外を制すれば、百事は廃れない。内で得られれば、外で収められる。内が得られれば、五臓は安らかになり、思案は平らかになり、筋力は強くなり、耳目は冴え、風通しがよくてもつれず、堅く強くて折れず、大きく行き過ぎることも届かないこともなく、小さなところにいても窮屈でなく、大きなところにいても隙間だらけにならず、その魂は騒がず、その神は乱れず、静まりかえって、天下の頭となる。
解説
この章句が説くこと
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『童子問』卷上問ふ、学問は果たして性の内に在りや、性の外に在りやと。曰く、内外一致す。内は以て外を資け、外は以て内を養ふ。相無かるべからず。譬へば猶ほ人の一体のごとし。心思知慮は内なり、視聴動作は外なり。専ら心思知慮を貴びて、尽く視聴動作を廃するは、可ならんや。且つ生養の具の若きは、飲食薬餌より、以て宮室衣服、平生の合用、凡百の器具に至るまで、皆之を外に資らざること靡し。豈に独り学問に至りて、之を疑はんや。樹は土に非ざれば則ち生ぜず、魚は水に非ざれば則ち活きず。然れども樹と魚とに由りて之を見れば、則ち土と水とは皆外なり。然れども須臾も離るることを得ざるなり。人の学問、生養の具、何物か之を外に資らざらん。設若し其の外なるを以て之を棄てば、猶ほ樹の土を離れ、魚の水を去るがごとく、一日も生くることを得ず。其の不可なること必せり。人の五倫に於ける、父子の親、兄弟の睦と雖も、既に其の体を異にす。況んや君臣夫婦朋友は皆義を以て合ふ。豈に之を外と謂ひて可ならんや。凡そ内外の二字、古人の称する所と、後世の謂ふ所と、其の義適に別なり。所謂内とは之を親しむの辞、外とは之を疎んずるの辞なり。大学に外本内末と曰ひ、荘周に内聖外王と曰ふが若き、是れなり。性を以て内と為して、性に非ざる者を以て外と為して、之を棄つるに非ざるなり。告子の外義も、亦た義を以て外と為して之を行ふを謂ふ。棄てて用ひざるの謂に非ず。聖賢初めより内外の弁無し。其の内外の分を立つるは、後儒の陋説なり。
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『呻吟語』内篇・修身・內外の分に明らかなり凡そ我に在る者は都て是れ分內底なり、天に在り人に在る者は都て是れ分外底なり。學者は內外の分に明らかなるを要す。則ち內に在りて一分を缺けば便ち是れ人と成らざる處、外に在りて一分を得れば便ち是れ該に足るを知るべき處なり。
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『正法眼蔵随聞記』巻二亦云く、世俗の礼にも人の見ざる処、あるひは暗室の中なれども、衣服等をきかゆる時も、亦坐臥する時にも、放逸に隠処なんどをも蔵くさす無礼なるをば、天に慚ぢず鬼に慚ぢずとてそしるなり、只た人の見る時と同じく、かくすべき処をもかくし、はづべきことをもはづるなり、仏法の中も亦戒律かくのごとし、然あれば道者は内外を論ぜす、明暗を択はず、仏制を心に存して、人の見ず知らざればとて、悪事を行すべからざるなり、
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『正法眼蔵随聞記』巻一夜話に云く、今ま世出世間の人、多分は善事をなしては、かまへて人に知られんと思ひ、悪事を作して人に知られじと思ふ、是に依て内外不相応のこと出で来たる、あひかまへて内外相応じ、錯まりを悔ゐ、実徳をかくして、外相をかざらず好事をば他人にゆづり、悪事をば己れにむかふる志気あるべきなり、問て云く実徳を蔵し外相を飾らざらんこと、寔とに然るべし、但し仏菩薩は大悲利生を以て本とす、無智の道俗等外相の不善を見て是を謗り難せば、謗僧の罪を感ぜん、実徳を知らずとも、外相を見て貴とび供養せば、一分の福分たるべし、是らの斟酌いかなるべきぞ、
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『呻吟語』内篇・談道・吾が心を内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり吾が身を以て内と為せば、則ち吾が身の外は皆外物なり。故に富貴利達は、生く可く榮ゆ可きも、苟くも道に非ざれば、君子居らず。吾が心を以て内と為せば、則ち吾が身も亦た外物なり。故に貧賤憂慼は、辱む可く殺す可きも、苟くも道ならば、君子辭せず。
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『正法眼蔵随聞記』巻一答て云く、外相を飾らずとて、即ち放逸ならば亦是れ道理に差ふ、実徳を蔵すと云ふて、在家等の前にて悪行を現せば亦た是れ破戒の甚だしきなり、只希有の道心者、道者の由を人に知られんと思ひ、身にある失を人に知られじと思へども、諸天善神及び三宝の冥に知見する処なり、夫をば愧ずして、世人に貴とびられんと思ふ意ろを誠むるなり、只時にのぞみ事に触て、興法の為め利生の為に、諸事を斟酌すべきなり、擬して後に云ひ、思て後に行して、卒暴なること莫れとなり、

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