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淮南子 / 脩務訓

且夫聖人者,不恥身之賤,而愧道之不行;不憂命之短,而憂百姓之窮。是故禹之為水,以身解于陽盱之河。湯旱,以身禱于桑山之林。聖人憂民,如此其明也,而稱以「無為」,豈不悖哉!

新字:且夫聖人者,不恥身之賤,而愧道之不行;不憂命之短,而憂百姓之窮。是故禹之為水,以身解于陽盱之河。湯旱,以身禱于桑山之林。聖人憂民,如此其明也,而称以「無為」,豈不悖哉!

書き下し

且つ夫れ聖人なる者は、身の賤しきを恥じずして、道の行われざるを愧ず。命の短きを憂えずして、百姓の窮するを憂う。是の故に禹の水を爲むるや、身を以て陽盱の河に解く。湯 旱すれば、身を以て桑山の林に禱る。聖人の民を憂うること、此くの如く其れ明らかなり。而るに稱するに「無爲」を以てするは、豈に悖らざらんや。

現代語訳

そもそも聖人は、自分の身が賤しいことを恥じず、道が行われないことを恥じる。自分の命が短いことを憂えず、民が困窮していることを憂える。だから禹は水を治めるとき、我が身を陽盱の河に捧げて祈った。湯王は日照りのとき、我が身を桑山の林で犠牲に供えて祈った。聖人が民を憂えることは、これほどはっきりしている。それなのに「無為」を掲げて称するのは、まったく食い違ってはいないか。

解説

「身の賤しきを恥じずして、道の行われざるを愧ず」。恥じる先が自分ではなく、仕事のほうを向いている。禹も湯も、祈りの場に自分の身を差し出しました。ここまで並べたうえで、脩務訓は「無為」の誤読を切ります。何もしないことを道と呼ぶなら、この人たちの生涯は何だったのか、と。

この章句が説くこと

聖人なる者は身の賤しきを恥じずして道の行われざるを愧ず命の短きを憂えずして百姓の窮するを憂う禹の水を為むるや身を以て陽盱の河に解く湯旱すれば身を以て桑山の林に禱る聖人の民を憂うること此くの如く其れ明らかなり而るに称するに無為を以てするは豈に悖らざらんや責任

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