淮南子 / 覽冥訓
夫道之與德,若韋之與革,遠之則邇,近之則遠。不得其道,若觀鯈魚。故聖若鏡,不將不迎,應而不藏,故萬化而無傷。其得之,乃失之;其失之,非乃得之也。今失調弦者,叩宮宮應,彈角角動,此同聲相和者也。夫有改調一弦,其於五音無所比,鼓之而二十五弦皆應,此未始異於聲,而音之君已形也。故通於太和者,昏若純醉而甘臥以遊其中,而不知其所由至也。
新字:夫道之与徳,若韋之与革,遠之則邇,近之則遠。不得其道,若観鯈魚。故聖若鏡,不将不迎,応而不蔵,故万化而無傷。其得之,乃失之;其失之,非乃得之也。今失調弦者,叩宮宮応,弾角角動,此同声相和者也。夫有改調一弦,其於五音無所比,鼓之而二十五弦皆応,此未始異於声,而音之君已形也。故通於太和者,昏若純酔而甘臥以遊其中,而不知其所由至也。
書き下し
夫れ道の德と、韋の革とのごとく、之を遠ざくれば則ち邇く、之に近づけば則ち遠し。其の道を得ざれば、鯈魚を觀るがごとし。故に聖は鏡のごとく、將らず迎えず、應じて藏せず。故に萬化して傷むこと無し。其れ之を得るは、乃ち之を失うなり。其れ之を失うは、乃ち之を得るに非ざるなり。今 弦を調ぶるを失う者、宮を叩けば宮應じ、角を彈けば角動く。此れ同聲相い和する者なり。夫れ一弦を改め調ぶること有りて、其れ五音に於いて比する所無きも、之を鼓せば二十五弦皆な應ず。此れ未だ始めより聲に異ならずして、音の君 已に形るるなり。故に太和に通ずる者は、昏として純醉して甘く臥し以て其の中に遊ぶがごとくにして、其の由りて至る所を知らざるなり。
現代語訳
そもそも道と徳との関係は、なめし皮と生皮のようなもので、遠ざければ近く、近づけば遠い。その道を得なければ、水の中の小魚を眺めているようなものだ。だから聖人は鏡のようで、送りもせず迎えもせず、応じてもため込まない。だから万に変化しても傷つかない。得たと思うのは、それを失うことであり、失ったと思うのは、それを得たのではない、ということでもない。いま弦の調子を合わせそこなった者でも、宮の弦を叩けば宮が応じ、角を弾けば角が動く。これは同じ声が和し合うのである。ところが、一つの弦を別の調子に変えて、五音のどれにも当てはまらないようにしておいて、それを鳴らすと、二十五弦すべてが応じる。これははじめから声に異なるところがないのではなく、音の君主がすでに形をとっているのである。だから大いなる和に通じた者は、ぼんやりと酔いに任せて心地よく臥し、その中に遊んでいるようでいて、どこから来たものかを自分では知らない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『十善法語』巻第七・不兩舌戒書経ニ。八音克諧。無相奪倫。神人以和ト云。史記ノ中。鄒忌子カ言ニ。琴音調而天下治ト云。隋煬帝ノトキ□或者カ宮声往テ復ラヌヲ聞テ。君ハ他国ニ没スヘシ。宮声ハ君ナリ。往テ復ラヌハ。他所ニ在テ命終ノ兆ナリト云タ。果シテ楊州ニ巡狩シテ。宇文化及ニ弑セラル。此類声韻律呂モ其趣アルト云コトシヤ。殷ノトキ比干殺サレ。箕子囚レテ国ノ亡ル。楚国ニ屈原放逐セラレテ漸ク衰フル。此等人ノ知ル通リシヤ。衛ノ霊公カ世子蒯職ヲ逐テ国乱ル。晋献公カ太子申生ヲ殺シテ。五世安カラス。泰伯ノ父ノ志ヲ見テ。吳ニ去テ周カ興ル。伯魚子思カ父祖ノ道ヲ守テ。孔氏カ永葉伝ル類。父子ノ道カクシヤ。
-
易経・乾卦大和なれば、乃ち貞に利あり。庶物に首出して、万国咸(ことごと)く寧(やす)し。象に曰く、
-
説苑・說叢鸞は鑣に設け、和は軾に設く。馬動きて鸞鳴り、鸞鳴りて和應ず、行の節なり。
-
論語・子路篇子曰わく、君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず。
-
『茶の本』第二章 茶の諸流・茶道は道教の仮りの姿茶室の調子を破る一点の色もなく、物のリズムをそこなうそよとの音もなく、調和を乱す一指の動きもなく、四囲の統一を破る一言も発せず、すべての行動を単純に自然に行なう――こういうのが、すなわち茶の湯の目的であった。そしていかにも不思議なことには、それがしばしば成功したのであった。そのすべての背後には微妙な哲理が潜んでいた。茶道は道教の仮りの姿であった。
-
『幽夢影』巻上・色は花と相反すべし花を養ふの膽瓶は、其の式の高低大小、須らく花と相稱ふべし。而して色の淺深濃淡は、又須らく花と相反すべし。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る