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淮南子 / 脩務訓

通人則不然。服劍者期於銛利,而不期於墨陽、莫邪;乘馬者期於千里,而不期於驊騮、綠耳;鼓琴者期於鳴廉修營,而不期於濫肋、號鍾;誦《詩》、《書》者期於通道略物,而不期於《洪範》、《商頌》。聖人見是非,若白黑之於目辨,清濁之於耳聽。眾人則不然。中無主以受之,譬若遺腹子之上隴,以禮哭泣之,而無所歸心。

新字:通人則不然。服剣者期於銛利,而不期於墨陽、莫邪;乗馬者期於千里,而不期於驊騮、綠耳;鼓琴者期於鳴廉修営,而不期於濫肋、号鍾;誦《詩》、《書》者期於通道略物,而不期於《洪範》、《商頌》。聖人見是非,若白黒之於目弁,清濁之於耳聴。眾人則不然。中無主以受之,譬若遺腹子之上隴,以礼哭泣之,而無所帰心。

書き下し

通人は則ち然らず。劍を服する者は銛利を期して、墨陽・莫邪を期せず。馬に乘る者は千里を期して、驊騮・綠耳を期せず。琴を鼓する者は鳴廉修營を期して、濫肋・號鍾を期せず。詩・書を誦する者は道に通じ物を略ぶるを期して、洪範・商頌を期せず。聖人の是非を見るは、白黑の目に辨たるる、清濁の耳に聽かるるが若し。眾人は則ち然らず。中に主として以て之を受くる無し。譬えば遺腹子の隴に上り、禮を以て之を哭泣するも、心を歸する所無きが若し。

現代語訳

物に通じた人はそうではない。剣を帯びる者は切れ味を求め、墨陽や莫邪という名を求めない。馬に乗る者は千里を行くことを求め、驊騮や緑耳という名を求めない。琴を弾く者はよく鳴ることを求め、濫肋や号鐘という名を求めない。詩や書を誦する者は道に通じて物事を束ねることを求め、洪範や商頌という篇名を求めない。聖人が是非を見るのは、白黒が目で見分けられ、清濁が耳で聞き分けられるのと同じである。多くの人はそうではない。心の中に受け止める主がない。たとえば父の死後に生まれた子が墓に上り、礼にのっとって泣いても、心の帰るところがないようなものである。

解説

剣は切れ味、馬は距離、琴は音、書は道。求めるものを名前から実質に引き戻す四つの言い換えです。締めの比喩が切ない。父を知らずに生まれた子が、墓の前で作法どおりに泣いても、心の向かう先がない。名前をなぞって学ぶ姿を、これにたとえています。

この章句が説くこと

通人は則ち然らず剣を服する者は銛利を期して墨陽・莫邪を期せず馬に乗る者は千里を期して驊騮・綠耳を期せず詩・書を誦する者は道に通じ物を略ぶるを期して洪範・商頌を期せず聖人の是非を見るは白黒の目に弁たるる清濁の耳に聴かるるが若し眾人は中に主として以て之を受くる無し実質

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