淮南子 / 覽冥訓
昔雍門子以哭見於孟嘗君,已而陳辭通意,撫心發聲。孟嘗君為之增欷歍唈,流涕狼戾不可止。精神形於內,而外諭哀于人心,此不傳之道。使俗人不得其君形者而效其容,必為人笑。故蒲且子之連鳥於百仞之上,而詹何之騖魚於大淵之中,此皆得清淨之道,太浩之和也。夫物類之相應,玄妙深微,知不能論,辯不能解,故東風至而酒湛溢,蠶咡絲而商弦絕,或感之也。畫隨灰而月運闕,鯨魚死而彗星出,或動之也。故聖人在位,懷道而不言,澤及萬民。君臣乖心,則背譎見於天,神氣相應,徵矣。故山雲草莽,水雲魚鱗,旱雲煙火,涔雲波水,各象其形類,所以感之。
新字:昔雍門子以哭見於孟嘗君,已而陳辞通意,撫心発声。孟嘗君為之增欷歍唈,流涕狼戻不可止。精神形於内,而外諭哀于人心,此不伝之道。使俗人不得其君形者而効其容,必為人笑。故蒲且子之連鳥於百仞之上,而詹何之騖魚於大淵之中,此皆得清浄之道,太浩之和也。夫物類之相応,玄妙深微,知不能論,弁不能解,故東風至而酒湛溢,蠶咡糸而商弦絶,或感之也。画随灰而月運闕,鯨魚死而彗星出,或動之也。故聖人在位,懐道而不言,沢及万民。君臣乖心,則背譎見於天,神気相応,徴矣。故山雲草莽,水雲魚鱗,旱雲煙火,涔雲波水,各象其形類,所以感之。
書き下し
昔 雍門子 哭するを以て孟嘗君に見ゆ。已にして辭を陳べ意を通じ、心を撫して聲を發す。孟嘗君 之が為に欷を增し歍唈し、涕を流すこと狼戾として止む可からず。精神 內に形れて、外は哀を人の心に諭す、此れ傳えざるの道なり。俗人をして其の君形なる者を得ずして其の容を效わしむれば、必ず人に笑われん。故に蒲且子の鳥を百仞の上に連ね、詹何の魚を大淵の中に騖するは、此れ皆な清淨の道、太浩の和を得たるなり。夫れ物類の相い應ずるは、玄妙深微にして、知も論ずる能わず、辯も解く能わず。故に東風至りて酒湛溢し、蠶 絲を咡みて商弦絕つは、或るもの之を感ずればなり。畫 灰に隨いて月運闕け、鯨魚死して彗星出づるは、或るもの之を動かせばなり。故に聖人 位に在れば、道を懷きて言わずして、澤 萬民に及ぶ。君臣 心を乖にすれば、則ち背譎 天に見わる。神氣の相い應ずる、徵なり。故に山雲は草莽のごとく、水雲は魚鱗のごとく、旱雲は煙火のごとく、涔雲は波水のごとし。各々其の形類に象るは、之を感ずる所以なり。
現代語訳
昔、雍門子が泣くことをもって孟嘗君に会った。やがて言葉を述べて思いを通わせ、胸に手を当てて声を発した。孟嘗君はそのためにすすり泣きを重ねてむせび、涙を流して乱れ、止めることができなかった。精神が内に形をとり、外には哀しみが人の心に伝わる。これは教え伝えられない道である。ふつうの人に、その根もとにあるものを得ないまま姿かたちだけを真似させれば、必ず人に笑われる。だから蒲且子が百仞の高さの鳥を射て連ねたのも、詹何が深い淵の魚を釣り寄せたのも、みな清らかに静かな道、大いなる和を得ていたからである。そもそも同じ類のものが互いに応じ合うのは、奥深く微かで、知では論じきれず、弁では解ききれない。だから東風が至れば酒が湧きあふれ、蚕が糸を吐けば商の弦が切れるのは、何かが感じ合っているのである。灰が動くにつれて月の暈が欠け、鯨が死ねば彗星が出るのは、何かが動かしているのである。だから聖人が位にあれば、道を懐いて言わずとも、恵みは万民に及ぶ。君と臣の心が離れれば、そむく兆しが天に現れる。気と気が応じ合うのは、その証である。だから山の雲は草むらの形、水の雲は魚の鱗の形、旱の雲は煙火の形、雨の雲は波の形をしている。それぞれその類に似るのは、感じ合っているからである。
解説
この章句が説くこと
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