淮南子 / 泰族訓
故聖人養心,莫善於誠,至誠而能動化矣。今夫道者,藏精於內,棲神於心,靜漠恬淡,訟繆胸中,邪氣無所留滯,四枝節族,毛蒸理泄,則機樞調利,百脈九竅莫不順比,其所居神者得其位也,豈節拊而毛修之哉!
新字:故聖人養心,莫善於誠,至誠而能動化矣。今夫道者,蔵精於内,棲神於心,静漠恬淡,訟繆胸中,邪気無所留滞,四枝節族,毛蒸理泄,則機枢調利,百脈九竅莫不順比,其所居神者得其位也,豈節拊而毛修之哉!
書き下し
故に聖人の心を養うは、誠より善きは莫し。至誠にして能く動化す。今 夫れ道なる者は、精を內に藏し、神を心に棲ましめ、靜漠恬淡、胸中に訟繆し、邪氣 留滯する所無く、四枝節族、毛 蒸し理 泄け、則ち機樞 調利し、百脈九竅 順比せざる莫し。其の神を居らしむる所の者 其の位を得ればなり。豈に節拊して毛のごとく之を修めんや。
現代語訳
聖人が心を養うのに、誠にまさるものはない。至誠であってはじめて、動かし変えることができる。道というものは、精を内に蔵し、神を心に棲まわせ、静かで淡々として、胸の内を整え、邪気が留まるところがなく、手足も節々も、毛穴から気が発し肌理から通じて、要のはたらきがなめらかになり、あらゆる血脈と九つの穴が従い調わないものはない。神を宿す場所が、その位置を得ているからである。どうして節々を叩いて、毛の一本ずつを整えるようなことをしようか。
解説
「聖人の心を養うは、誠より善きは莫し」。前段の「大が小を生む」を受けて、人の内側で何を大きくするかを言います。答えは誠の一字。中心が正しい位置にあれば、末端まで自然に調う。「豈に節拊して毛のごとく之を修めんや」——一つずつ叩いて直す必要はない、という締めが具体的です。
この章句が説くこと
聖人の心を養うは誠より善きは莫し至誠にして能く動化す道なる者は精を内に蔵し神を心に棲ましめ静漠恬淡たり邪気留滞する所無く機枢調利し百脈九竅順比せざる莫し其の神を居らしむる所の者其の位を得ればなり豈に節拊して毛のごとく之を修めんや誠
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