淮南子 / 泰族訓
紂之地,左東海,右流沙,前交趾,後幽都,師起容關,至浦水,士億有餘萬,然皆倒矢而射,傍戟而戰。武王左操黃鉞,右執白旄以麾之,則瓦解而走,遂土崩而下。紂有南面之名,而無一人之德,此失天下也。故桀、紂不為王,湯、武不為放。
新字:紂之地,左東海,右流沙,前交趾,後幽都,師起容関,至浦水,士億有余万,然皆倒矢而射,傍戟而戦。武王左操黄鉞,右執白旄以麾之,則瓦解而走,遂土崩而下。紂有南面之名,而無一人之徳,此失天下也。故桀、紂不為王,湯、武不為放。
書き下し
紂の地、左は東海、右は流沙、前は交趾、後は幽都。師 容關に起こり、浦水に至る。士 億有餘萬。然れども皆な矢を倒にして射、戟を傍にして戰う。武王 左に黃鉞を操り、右に白旄を執りて以て之を麾けば、則ち瓦解して走り、遂に土崩して下る。紂に南面の名有りて、一人の德無し。此れ天下を失うなり。故に桀・紂は王を爲さず、湯・武は放を爲さず。
現代語訳
紂の領土は、左に東海、右に流沙、前に交趾、後ろに幽都まで及んだ。軍は容関に発して浦水にまで至り、兵は億を超えた。それでもみな矢を逆さに持って射、戟を横に構えて戦った。武王が左に黄金の鉞を持ち、右に白い旄を執って指揮すると、たちまち瓦のように崩れて逃げ、ついに土が崩れるように降伏した。紂には天子という名があり、一人分の徳もなかった。これが天下を失うということである。だから桀と紂は王ではなかったし、湯と武王は主君を追放したのではない。
解説
兵は億を超えていました。それでも「矢を倒にして射、戟を傍にして戰う」——本気で戦っていない。数がそのまま力にならない例です。「紂に南面の名有りて、一人の德無し」。名は残っていて中身がなかった。だから、桀紂を討ったことは主君の追放にあたらない、と孟子と同じ論法で締められます。名は残っていて中身がなかった、という数え方になっています。
この章句が説くこと
紂の地左は東海右は流沙前は交趾後は幽都士億有余万然れども皆な矢を倒にして射戟を傍にして戦う武王左に黄鉞を操り右に白旄を執りて以て之を麾けば則ち瓦解して走る紂に南面の名有りて一人の徳無し此れ天下を失うなり故に桀・紂は王を為さず湯・武は放を為さず士気
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