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淮南子 / 繆稱訓

君子者,樂有餘而名不足,小人樂不足而名有餘。觀于有餘不足之相去,昭然遠矣。含而弗吐,在情而不萌者,未之聞也。君子思義而不慮利,小人貪利而不顧義。子曰:「鈞之哭也,曰:『子予奈何兮乘我何』其哀則同,其所以哀則異。」故哀樂之襲人情也深矣。鑿地漂池,非止以勞苦民也。各從其蹠而亂生焉。其載情一也,施人則異矣。故唐、虞日孳孳以致于王,桀、紂日怏怏以致於死,不知後世之譏己也。凡人情,說其所苦即樂,失其所樂則哀。故知生之樂,必知死之哀。

新字:君子者,楽有余而名不足,小人楽不足而名有余。観于有余不足之相去,昭然遠矣。含而弗吐,在情而不萌者,未之聞也。君子思義而不慮利,小人貪利而不顧義。子曰:「鈞之哭也,曰:『子予奈何兮乗我何』其哀則同,其所以哀則異。」故哀楽之襲人情也深矣。鑿地漂池,非止以労苦民也。各従其蹠而乱生焉。其載情一也,施人則異矣。故唐、虞日孳孳以致于王,桀、紂日怏怏以致於死,不知後世之譏己也。凡人情,説其所苦即楽,失其所楽則哀。故知生之楽,必知死之哀。

書き下し

君子なる者は、樂しみ餘り有りて名 足らず。小人は樂しみ足らずして名 餘り有り。餘り有ると足らざるとの相い去るを觀れば、昭然として遠し。含みて吐かず、情に在りて萌さざる者は、未だ之を聞かざるなり。君子は義を思いて利を慮らず、小人は利を貪りて義を顧みず。子曰く、「鈞しく之れ哭するなり。曰く『子予 奈何ぞや、我に乘ずること何ぞ』と。其の哀しみは則ち同じくして、其の哀しむ所以は則ち異なる」と。故に哀樂の人情を襲うこと深し。地を鑿ち池を漂わすは、止だ以て民を勞苦せしむるに非ず。各々其の蹠に從いて亂 生ずるなり。其の情を載するは一なるも、人に施せば則ち異なる。故に唐・虞は日々孳孳として以て王に致り、桀・紂は日々怏怏として以て死に致る。後世の己を譏るを知らざるなり。凡そ人の情、其の苦とする所を說べば即ち樂しみ、其の樂しむ所を失えば則ち哀しむ。故に生の樂を知れば、必ず死の哀を知る。

現代語訳

君子は楽しみに余りがあって名が足りず、小人は楽しみが足りなくて名に余りがある。余りがあることと足りないことの隔たりを見れば、はっきりと遠い。内に含んで吐き出さず、情にありながら芽を出さないということは、聞いたことがない。君子は義を思って利を考えず、小人は利をむさぼって義を顧みない。孔子は言った、「同じように哭している。『あなたはどうしてこうなのか、私にどうしてこうするのか』と。その哀しみは同じでも、哀しむ理由は違う」。だから哀しみと楽しみが人の情に入り込むのは深い。地を掘り池を作るのは、ただ民を苦労させるためではない。それぞれの足の向きに従って乱れが生じるのである。載せている情は同じでも、人に施せば違ってくる。だから堯と舜は日ごとにこつこつと励んで王に至り、桀と紂は日ごとに不平を抱いて死に至った。後の世が自分をそしることを知らなかったのである。人の情として、苦しんでいることが解ければ楽しくなり、楽しんでいることを失えば哀しむ。だから生の楽しみを知れば、必ず死の哀しみを知る。

解説

冒頭の対句が身に沁みます。「君子なる者は、樂しみ餘り有りて名 足らず。小人は樂しみ足らずして名 餘り有り」。実際の充実と、外に響いている名前とは、しばしば釣り合わない。孔子の言葉も同じ向きで、同じように泣いていても泣く理由は違う。同じ振る舞いから中身は読めない、という警戒です。そして「生の樂を知れば、必ず死の哀を知る」。楽しみと哀しみは同じ量で対になっている、と。

この章句が説くこと

君子なる者は楽しみ余り有りて名足らず小人は楽しみ足らずして名余り有り君子は義を思いて利を慮らず小人は利を貪りて義を顧みず其の哀しみは則ち同じくして其の哀しむ所以は則ち異なる唐・虞は日々孳孳として以て王に致り桀・紂は日々怏怏として以て死に致る生の楽を知れば必ず死の哀を知る名実

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