淮南子 / 齊俗訓
故其見不遠者,不可與語大;其智不閎者,不可與論至。昔者馮夷得道,以潛大川;鉗且得道,以處昆侖。扁鵲以治病;造父以御馬,羿以之射,倕以之斲,所為者各異,而所道者一也。夫稟道以通物者,無以相非也。譬若同陂而溉田,其受水均也。今屠牛而烹其肉,或以為酸,或以為甘,煎熬燎炙,齊味萬方,其本一牛之體。伐楩柟豫樟而剖梨之,或為棺槨,或為柱梁,披斷撥檖,所用萬方,然一木之樸也。故百家之言,指奏相反,其合道一體也。譬若絲竹金石之會樂同也,其曲家異而不失於體。
新字:故其見不遠者,不可与語大;其智不閎者,不可与論至。昔者馮夷得道,以潜大川;鉗且得道,以処昆侖。扁鵲以治病;造父以御馬,羿以之射,倕以之斲,所為者各異,而所道者一也。夫稟道以通物者,無以相非也。譬若同陂而溉田,其受水均也。今屠牛而烹其肉,或以為酸,或以為甘,煎熬燎炙,斉味万方,其本一牛之体。伐楩柟予樟而剖梨之,或為棺槨,或為柱梁,披断撥檖,所用万方,然一木之樸也。故百家之言,指奏相反,其合道一体也。譬若糸竹金石之会楽同也,其曲家異而不失於体。
書き下し
故に其の見ること遠からざる者は、與に大を語る可からず。其の智 閎からざる者は、與に至を論ず可からず。昔者 馮夷 道を得て、以て大川に潛む。鉗且 道を得て、以て昆侖に處る。扁鵲は以て病を治め、造父は以て馬を御し、羿は之を以て射、倕は之を以て斲る。為す所の者は各々異なりて、道う所の者は一なり。夫れ道を稟けて以て物に通ずる者は、以て相い非とする無きなり。譬えば同じ陂にして田に溉ぐが若し、其の水を受くること均しきなり。今 牛を屠りて其の肉を烹るに、或いは以て酸しと為し、或いは以て甘しと為す。煎熬燎炙、味を齊うること萬方なるも、其の本は一牛の體なり。楩柟豫樟を伐りて之を剖梨するに、或いは棺槨と為し、或いは柱梁と為す。披斷撥檖、用うる所 萬方なるも、然れども一木の樸なり。故に百家の言、指奏 相い反するも、其の道に合するは一體なり。譬えば絲竹金石の會するに樂は同じきが若し。其の曲は家ごとに異なるも體を失わず。
現代語訳
だから見る範囲の遠くない者とは、大きなことを語れない。知恵の広くない者とは、極みを論じられない。昔、馮夷は道を得て大河に潜み、鉗且は道を得て昆侖に住んだ。扁鵲はそれで病を治し、造父はそれで馬を御し、羿はそれで射て、倕はそれで木を削った。行うことはそれぞれ違うが、拠るところは一つである。道を受けて物に通じる者は、互いを非とすることがない。たとえば同じ池から田に水を引くようなもので、水を受ける点では等しい。いま牛を屠ってその肉を煮ると、ある者は酸いと言い、ある者は甘いと言う。煮たり焼いたり、味の整え方は幾通りもあるが、もとは一頭の牛の体である。楩や柟や豫樟を伐って割ると、ある者は棺にし、ある者は柱や梁にする。裂き断ち削り、使い道は幾通りもあるが、もとは一本の木である。だから諸家の言葉は、向かうところが正反対でも、道に合うところでは一つの体である。たとえば弦や竹や鐘や磬が合わさっても楽は同じであるようなものだ。曲は家ごとに違っても、体は失われない。
解説
この章句が説くこと
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