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淮南子 / 精神訓

今夫儒者不本其所以欲,而禁其所欲;不原其所以樂,而閉其所樂。是猶決江河之源,而障之以手也。夫牧民者,猶畜禽獸也,不塞其囿垣,使有野心,系絆其足,以禁其動,而欲修生壽終,豈可得乎!夫顏回、季路、子夏、冉伯牛,孔子之通學也,然顏淵夭死,季路菹于衛,子夏失明,冉伯牛為厲。此皆迫性拂情,而不得其和也。故子夏見曾子,一臞一肥。曾子問其故,曰:「出見富貴之樂而欲之,入見先王之道又說之。兩者心戰,故臞;先王之道勝,故肥。」推其志,非能貪富貴之位,不便侈靡之樂,直宜迫性閉欲,以義自防也。雖情心鬱殪,形性屈竭,猶不得已自強也。故莫能終其天年。

新字:今夫儒者不本其所以欲,而禁其所欲;不原其所以楽,而閉其所楽。是猶決江河之源,而障之以手也。夫牧民者,猶畜禽獣也,不塞其囿垣,使有野心,系絆其足,以禁其動,而欲修生寿終,豈可得乎!夫顏回、季路、子夏、冉伯牛,孔子之通学也,然顏淵夭死,季路菹于衛,子夏失明,冉伯牛為厲。此皆迫性払情,而不得其和也。故子夏見曽子,一臞一肥。曽子問其故,曰:「出見富貴之楽而欲之,入見先王之道又説之。両者心戦,故臞;先王之道勝,故肥。」推其志,非能貪富貴之位,不便侈靡之楽,直宜迫性閉欲,以義自防也。雖情心鬱殪,形性屈竭,猶不得已自強也。故莫能終其天年。

書き下し

今夫れ儒者は其の欲する所以に本づかずして、其の欲する所を禁じ、其の樂しむ所以に原づかずして、其の樂しむ所を閉ざす。是れ猶お江河の源を決して、之を障ぐに手を以てするがごとし。夫れ民を牧う者は、猶お禽獸を畜うがごとし。其の囿垣を塞がずして、野心有らしめ、其の足を系絆して、以て其の動くを禁じ、而も生を修め壽を終えんと欲するは、豈に得可けんや。夫れ顏回・季路・子夏・冉伯牛は、孔子の通學なり。然れども顏淵は夭死し、季路は衛に菹にせられ、子夏は明を失い、冉伯牛は厲と為る。此れ皆な性に迫り情に拂いて、其の和を得ざればなり。故に子夏 曾子に見ゆるに、一たびは臞せ一たびは肥ゆ。曾子 其の故を問う。曰く、「出でては富貴の樂しみを見て之を欲し、入りては先王の道を見て又た之を說ぶ。兩者 心に戰う、故に臞せたり。先王の道 勝てり、故に肥えたり」と。其の志を推すに、能く富貴の位を貪り、侈靡の樂しみを便とするに非ず。直だ宜しく性に迫り欲を閉ざし、義を以て自ら防ぐべしとせるなり。情心 鬱殪し、形性 屈竭すと雖も、猶お已むを得ずして自ら強うるなり。故に能く其の天年を終うる莫し。

現代語訳

いま儒者は、人がなぜ欲するのかに立ち返らずにその欲するものを禁じ、なぜ楽しむのかに立ち返らずにその楽しむものを閉ざす。これは長江や黄河の源を切っておいて、それを手でせき止めるようなものだ。そもそも民を牧するのは、獣を飼うようなものである。囲いの垣を塞がずに野に出たい心を持たせておきながら、その足を縛って動くのを禁じ、それで命を全うさせようとするのは、できることだろうか。顔回・季路・子夏・冉伯牛は、孔子の門下の通じた学者である。それでも顔淵は若死にし、季路は衛で切り刻まれ、子夏は目を失い、冉伯牛は重い病になった。これはみな性に無理を強い情をねじ曲げて、その和らぎを得られなかったからである。だから子夏が曾子に会ったとき、痩せていたり肥えていたりした。曾子がわけを問うと、こう言った。「外に出ては富貴の楽しみを見てそれを欲し、内に入っては先王の道を見てまたそれを喜ぶ。二つが心の中で戦う、だから痩せた。先王の道が勝った、だから肥えた」。その志を推し量れば、富貴の位をむさぼり、贅沢の楽しみを好んだのではない。ただ、性に無理を強い欲を閉ざし、義によって自分を防ぐべきだと考えたのである。心はふさがり、体と性は尽きても、なおやむを得ず自分を励ました。だから天寿を全うできなかったのだ。

解説

喩えが直截です。「江河の源を決して、之を障ぐに手を以てするがごとし」。源を切り開いておいて、流れ出す水を手でせき止める。欲の出どころを見ないまま、出てきた欲だけを禁じることへの批判です。証拠として孔門の四人の早世と病を挙げるのは、儒家への強い当てこすりですが、子夏の告白は生々しい。外で富貴を見て欲しくなり、内で道を見て喜ぶ。二つが心で戦って痩せた、と。

この章句が説くこと

儒者は其の欲する所以に本づかずして其の欲する所を禁ず是れ猶お江河の源を決して之を障ぐに手を以てするがごとし其の足を系絆して以て其の動くを禁ず皆な性に迫り情に払いて其の和を得ざればなり両者心に戦う故に臞せたり欲望

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