淮南子 / 脩務訓
若以布衣徒步之人觀之,則伊尹負鼎而幹湯,呂望鼓刀而入周,百里奚轉鬻,管仲束縛,孔子無黔𥥍,墨子無暖席。是以聖人不高山,不廣河,蒙恥辱以幹世主,非以貪祿慕位,欲事起天下利,而除萬民之害。蓋聞傳書曰:「神農憔悴,堯瘦臞,舜黴黑,禹胼胝。」由此觀之,則聖人之憂勞百姓甚矣。故自天子以下至於庶人,四胑不動,思慮不用,事治求澹者,未之聞也。
新字:若以布衣徒歩之人観之,則伊尹負鼎而幹湯,呂望鼓刀而入周,百里奚転鬻,管仲束縛,孔子無黔𥥍,墨子無暖席。是以聖人不高山,不広河,蒙恥辱以幹世主,非以貪禄慕位,欲事起天下利,而除万民之害。蓋聞伝書曰:「神農憔悴,堯瘦臞,舜黴黒,禹胼胝。」由此観之,則聖人之憂労百姓甚矣。故自天子以下至於庶人,四胑不動,思慮不用,事治求澹者,未之聞也。
書き下し
若し布衣徒步の人を以て之を觀れば、則ち伊尹は鼎を負いて湯に幹め、呂望は刀を鼓して周に入り、百里奚は轉鬻せられ、管仲は束縛せられ、孔子は黔𥥍無く、墨子は暖席無し。是を以て聖人は山を高しとせず、河を廣しとせず、恥辱を蒙りて以て世主に幹むるは、以て祿を貪り位を慕うに非ず、事として天下の利を起こして、萬民の害を除かんと欲すればなり。蓋し聞く、傳書に曰く「神農は憔悴し、堯は瘦臞し、舜は黴黑し、禹は胼胝す」と。此れに由りて之を觀れば、則ち聖人の百姓を憂勞すること甚だし。故に天子より以下 庶人に至るまで、四胑 動かず、思慮 用いずして、事 治まり求め澹らかなる者は、未だ之を聞かざるなり。
現代語訳
身分のない徒歩の人から見れば、伊尹は鼎を背負って湯王に売り込み、呂望は包丁を鳴らして周に入り、百里奚は転売され、管仲は縛られ、孔子は竈が黒くなるまで居つかず、墨子は席が温まるまで座らなかった。だから聖人は、山を高いとして避けず、河を広いとして避けず、恥辱をこうむってでも世の主君に働きかけた。それは禄を貪り位を慕うためではない。天下の利を興し、万民の害を除こうとしたからである。伝書にこうある。「神農は憔悴し、堯は痩せ細り、舜は日に焼けて黒ずみ、禹は手足に胼胝ができた」。ここから見れば、聖人が民のために憂え労することは、たいへんなものである。だから天子から庶人に至るまで、手足を動かさず、思慮も使わずに、事が治まり求めが満たされたという者は、まだ聞いたことがない。
解説
この章句が説くこと
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