淮南子 / 俶真訓
夫秋豪之末,淪於無間而復歸於大矣;蘆苻之厚,通於無㙬而復反於敦龐。若夫無秋豪之微,蘆苻之厚,四達無境,通于無圻,而莫之要御夭遏者,其襲微重妙,挺挏萬物,揣丸變化,天地之間何足以論之!夫疾風绗木,而不能拔毛髮;雲臺之高,墮者折脊碎腦,而鶫劲適足以翱翔。夫與蚑蟯同乘天機,夫受形於一圈,飛輕微細者,猶足以脫其命,又況未有類也?由此觀之,無形而生有形,亦明矣。是故聖人託其神於靈府,而歸於萬物之初,視於冥冥,聽於無聲,冥冥之中獨見曉焉,寂漠之中獨有照焉。其用之也以不用,其不用也而後能用之;其知也乃不知,其不知也而後能知之也。
新字:夫秋豪之末,淪於無間而復帰於大矣;蘆苻之厚,通於無㙬而復反於敦龐。若夫無秋豪之微,蘆苻之厚,四達無境,通于無圻,而莫之要御夭遏者,其襲微重妙,挺挏万物,揣丸変化,天地之間何足以論之!夫疾風绗木,而不能抜毛髪;雲台之高,堕者折脊砕脳,而鶫劲適足以翱翔。夫与蚑蟯同乗天機,夫受形於一圏,飛軽微細者,猶足以脫其命,又況未有類也?由此観之,無形而生有形,亦明矣。是故聖人託其神於霊府,而帰於万物之初,視於冥冥,聴於無声,冥冥之中独見暁焉,寂漠之中独有照焉。其用之也以不用,其不用也而後能用之;其知也乃不知,其不知也而後能知之也。
書き下し
夫れ秋豪の末は、無間に淪みて復た大に歸す。蘆苻の厚きは、無㙬に通じて復た敦龐に反る。夫の秋豪の微、蘆苻の厚き無くして、四達して境無く、無圻に通じて、之を要御夭遏する莫き者の若きは、其の微を襲ね妙を重ね、萬物を挺挏し、變化を揣丸す。天地の間、何ぞ以て之を論ずるに足らん。夫れ疾風は木を绗るも、毛髮を拔く能わず。雲臺の高き、墮つる者は脊を折り腦を碎くも、鶫劲は適ミ翱翔するに足る。夫れ蚑蟯と天機に乘るを同じくし、夫れ形を一圈に受け、飛ぶこと輕く微細なる者すら、猶お以て其の命を脫するに足る。又た況んや未だ類有らざる者をや。此に由りて之を觀れば、無形にして有形を生ずること、亦た明らかなり。是の故に聖人は其の神を靈府に託して、萬物の初めに歸し、冥冥に視、無聲に聽く。冥冥の中に獨り曉を見、寂漠の中に獨り照らす有り。其の之を用うるや不用を以てし、其の之を用いざるや而る後に能く之を用う。其の知るや乃ち知らず、其の知らざるや而る後に能く之を知るなり。
現代語訳
そもそも秋の獣毛の先は、隙間のないところに沈んでまた大きなものに帰る。葦の膜の厚みは、隙間のないところに通じてまた厚みに返る。あの秋毛の微かさも葦の膜の厚みもなくて、四方に達して境がなく、区切りのないところに通じ、それを押しとどめられるものがないようなものは、微を重ね妙を重ね、万物を揺り動かし、変化を丸めていく。天地のあいだで、どうしてこれを論じきれよう。そもそも疾風は木をなぎ倒すが、毛髪は抜けない。雲台の高さから落ちる者は背骨を折り脳を砕くが、小鳥はちょうどよく飛び回れる。うごめく虫と同じく天の働きに乗り、同じ囲いの中で形を受け、飛ぶのが軽く細かいものでさえ、その命を逃れさせるに足りる。まして、まだ種類すらないものはなおさらだ。ここから見れば、形のないものが形あるものを生むことは、明らかである。だから聖人はその神を霊妙な蔵に託して、万物の初めに帰り、奥深いところを見、音のないところを聞く。奥深さのなかで独り明るさを見、ひっそりしたなかで独り照らすものがある。それを用いるときは用いないことによって用い、用いないでいてはじめて用いられる。知るときはむしろ知らないでいて、知らないでいてはじめて知ることができる。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『淮南子』俶真訓人流沫に鑑みずして、止水に鑑みる者は、其の靜かなるを以てなり。形を生鐵に窺わずして、明鏡に窺う者は、其の易らかなるを睹るを以てなり。夫れ唯だ易らかにして且つ靜かなるは、物を形す性なり。此に由りて之を觀れば、用は必ず之を弗用に假る。是の故に虛室白を生じ、吉祥止まるなり。夫れ鑑の明らかなる者は塵垢薶む能わず、神の清き者は嗜欲亂す能わず。精神已に外に越えて、事復た之に返るは、是れ之を本に失いて、之を末に求むるなり。外内符無くして物と接せんと欲し、其の玄光を弊いて之を知るを耳目に求むるは、是れ其の炤炤を釋てて、其の冥冥に道くなり。是を之れ道を失うと謂う。心至る所有りて神喟然として之に在り、之を虛に反せば則ち消鑠滅息す。此れ聖人の游なり。故に古の天下を治むるや、必ず性命の情に達す。其の舉錯未だ必ずしも同じからざるも、其の道に合するは一なり。
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『淮南子』俶真訓夫れ目秋豪の末を察すれば、耳雷霆の聲を聞かず。耳玉石の聲を調うれば、目太山の高きを見ず。何となれば則ち、小に志す所有りて大に忘るる所有ればなり。今萬物の來たりて、吾が性を擢拔し、吾が情を攓取すること、泉源有るが若し。稟くる勿からんと欲すと雖も、其れ得可けんや。今夫れ樹を木うる者、灌ぐに瀿水を以てし、疇するに肥壤を以てするも、一人之を養い、十人之を拔けば、則ち必ず餘蘖無し。又た況んや一國と同じく之を伐つをや。久しく生きんと欲すと雖も、豈に得可けんや。今盆水庭に在り、之を清ますこと日を終うるも、未だ眉睫を見る能わず。之を濁すは一撓に過ぎずして、方員を察する能わず。人の神は濁り易くして清み難きこと、猶お盆水の類のごときなり。況んや一世にして之を撓滑するをや。曷ぞ須臾も平らかなるを得んや。
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『淮南子』俶真訓夫れ貴賤の身に於けるや、猶お條風の時に麗くがごときなり。毀譽の己に於けるや、猶お蚊虻の一過するがごときなり。夫れ皓白を秉りて黑からず、純粹を行いて糅らず、玄冥に處りて闇からず、天鈞に休して䃣かず。孟門・終隆の山も禁ずる能わず、體道能く敗れずと雖も、湍瀨旋淵・呂梁の深きも留むる能わざるなり、太行石澗・飛狐・句望の險も難ずる能わざるなり。是の故に身は江海の上に處りて、神は魏闕の下に游ぶ。一原を得るに非ずんば、孰か能く此に至らんや。是の故に至人と居れば、家をして貧を忘れしめ、王公をして其の富貴を簡んじて卑賤を樂しましめ、勇者は其の氣を衰えしめ、貪者は其の欲を消さしむ。坐して教えず、立ちて議せず、虛しくして往く者は實ちて歸る。故に言わずして能く人に飲ましむるに和を以てす。是の故に至道は無為なり。一龍一蛇、盈縮卷舒し、時と變化す。外は其の風に從い、内は其の性を守り、耳目燿かず、思慮營まず。其の神を居らしむる所の者は、臺簡にして以て太清に游び、萬物を引楯し、群美萌生す。是の故に其の神に事うる者は神之を去り、其の神を休むる者は神之に居る。道は一原より出でて、九門に通じ、六衢に散じ、無垓坫の宇に設けられ、寂漠にして以て虛無なり。物に有為するに非ざるなり、物以て己に有為するなり。是の故に事を舉げて道に順う者は、道の為す所に非ざるなり、道の施す所なり。
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『淮南子』俶真訓夫れ人の其の神に事えて其の精を嬈し、營慧然として外に求むる有るは、此れ皆な其の神明を失いて其の宅を離るるなり。是の故に凍うる者は兼衣を春に假り、暍する者は冷風を秋に望む。夫れ内に病有る者は必ず外に色有り。夫れ梣木の色は青翳、蠃瘉蝸睆、此れ皆な目を治むるの藥なり。人故無くして此の物を求むる者は、必ず其の明を蔽う者有り。聖人の天下を駭かす所以の者は、真人未だ嘗て焉を過らず。賢人の世俗を矯むる所以の者は、聖人未だ嘗て焉を觀ず。夫れ牛蹄の涔には、尺の鯉無し。塊阜の山には、丈の材無し。然る所以の者は何ぞや。皆な其の營宇狹小にして、巨大を容るる能わざればなり。又た況んや無を以て之を裹む者をや。此れ其の山淵の勢を為すこと亦た遠し。夫れ人の世に拘わるや、必ず形繫がれて神泄る。故に虛を免れず。我をして係羈す可からしむる者は、必ず其の命の外に在る有ればなり。
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『淮南子』俶真訓夫の神掩う所無く、心載する所無く、通洞條達、恬漠無事、凝滯する所無く、虛寂にして以て待つが若きは、勢利も誘う能わず、辯者も說く能わず、聲色も淫する能わず、美なる者も濫す能わず、智者も動かす能わず、勇者も恐れしむる能わず。此れ真人の道なり。然る若き者は、萬物を陶冶し、造化者と人を為す。天地の間、宇宙の内、能く夭遏する莫し。夫れ生を化する者は死せずして、物を化する者は化せず。神は驪山・太行を經るも難ずる能わず、四海九江に入るも濡す能わず、小隘に處るも塞がらず、天地の間に橫扃するも窕ならず。此に通ぜざる者は、目に數千羊の群を數え、耳に八風の調を分かち、足に陽阿の舞を蹀み、手に綠水の趨に會し、智は天地を終え、明は日月を照らし、辯は連環を解き、澤は玉石を潤すと雖も、猶お天下を治むるに益無きなり。靜漠恬澹は、性を養う所以なり。和愉虛無は、德を養う所以なり。外内を滑さざれば、則ち性其の宜しきを得。性和を動かさざれば、則ち德其の位に安んず。生を養いて以て世を經め、德を抱きて以て年を終うるは、能く道を體すと謂う可し。然る若き者は、血脈鬱滯無く、五藏蔚氣無く、禍福も撓滑する能わず、非譽も塵垢する能わず。故に能く其の極を致す。其の世有るに非ずんば、孰か能く濟わんや。其の人有るも其の時に遇わずんば、身すら猶お脫する能わず、又た況んや道無きをや。且つ人の情、耳目は感動に應じ、心志は憂樂を知り、手足の疾𧒃を㩌ち、寒暑を辟くるは、物と接する所以なり。蜂蠆指を螫して神憺かなる能わず、蚉蝱膚を噆みて知平らかなる能わず。夫れ憂患の來たりて、人心を攖すは、直だ蜂蠆の螫毒、蚊劲の慘怛のみに非ず。而るに靜漠虛無ならんと欲するも、之を柰何せんや。
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『淮南子』俶真訓始め有る者有り、未だ始めより始め有らざる者有り、未だ始めより夫の未だ始めより始め有らざる者有り。有る者有り、無き者有り、未だ始めより有無有らざる者有り、未だ始めより夫の未だ始めより有無有らざる者有り。所謂始め有る者とは、繁憤未だ發せず、萌兆牙櫱、未だ形埒垠堮有らず、無無蝡蝡として、將に生興せんと欲して未だ物類を成さざるなり。未だ始めより始め有らざる者有りとは、天氣始めて下り、地氣始めて上り、陰陽錯合し、相い與に宇宙の間に優游競暢し、德を被り和を含み、繽紛蘢蓯として、物と接せんと欲して未だ兆朕を成さざるなり。未だ始めより夫の未だ始めより始め有らざる者有りとは、天は和を含みて未だ降さず、地は氣を懷きて未だ揚げず、虛無寂寞、蕭條霄雿として、仿佛たる有る無く、氣遂びて大いに冥冥に通ずる者なり。有る者有りとは、萬物摻落し、根莖枝葉、青蔥苓蘢、萑蔰炫煌、蠉飛蝡動、蚑行噲息、切循把握す可くして數量有るを言う。無き者有りとは、之を視れども其の形を見ず、之を聽けども其の聲を聞かず、之を捫すれども得可からざるなり、之を望めども極む可からざるなり。儲與扈冶、浩浩瀚瀚として、隱儀揆度す可からずして光耀に通ずる者なり。未だ始めより有無有らざる者有りとは、天地を包裹し、萬物を陶冶し、大いに混冥に通じ、深閎廣大にして、外と為す可からず、豪を析き芒を剖ちて、内と為す可からず、環堵の宇無くして有無の根を生ずるなり。未だ始めより夫の未だ始めより有無有らざる者有りとは、天地未だ剖かれず、陰陽未だ判たれず、四時未だ分かたれず、萬物未だ生ぜず、汪然として平靜、寂然として清澄、其の形を見る莫し。光燿の無有に間いて、退きて自ら失うが若し。曰く、予能く無を有せども、未だ無を無くする能わざるなり。其の無を無くするを為すに及びては、至妙何ぞ此に及ぶに從わんや、と。