淮南子 / 氾論訓
及至夫彊之弱,弱之彊,危之安,存之亡也,非聖人,孰能觀之!大小尊卑,未足以論也,唯道之在者為貴。何以明之?天子處於郊亭,則九卿趨,大夫走,坐者伏,倚者齊。當此之時,明堂太廟,懸冠解劍,緩帶而寢。非郊亭大而廟堂狹小也,至尊居之也。天道之貴也,非特天子之為尊也,所在而眾仰之。夫蟄蟲鵲巢,皆嚮天一者,至和在焉爾。帝者誠能包稟道,合至和,則禽獸草木莫不被其澤矣,而況兆民乎!
新字:及至夫彊之弱,弱之彊,危之安,存之亡也,非聖人,孰能観之!大小尊卑,未足以論也,唯道之在者為貴。何以明之?天子処於郊亭,則九卿趨,大夫走,坐者伏,倚者斉。当此之時,明堂太廟,懸冠解剣,緩帯而寝。非郊亭大而廟堂狭小也,至尊居之也。天道之貴也,非特天子之為尊也,所在而衆仰之。夫蟄虫鵲巣,皆嚮天一者,至和在焉爾。帝者誠能包稟道,合至和,則禽獣草木莫不被其沢矣,而況兆民乎!
書き下し
彊の弱、弱の彊、危の安、存の亡に至るに及びては、聖人に非ざれば、孰か能く之を觀んや。大小尊卑は、未だ以て論ずるに足らざるなり。唯だ道の在る者を貴しと爲す。何を以て之を明らかにせん。天子 郊亭に處れば、則ち九卿 趨り、大夫 走り、坐する者は伏し、倚る者は齊しくす。此の時に當たりて、明堂太廟は、冠を懸け劍を解き、帶を緩めて寢ぬ。郊亭 大にして廟堂 狹小なるに非ざるなり。至尊 之に居ればなり。天道の貴きや、特り天子の尊と爲すに非ず。在る所にして眾 之を仰ぐなり。夫れ蟄蟲鵲巢の、皆な天一に嚮かうは、至和 焉に在ればなり。帝者 誠に能く道を包稟し、至和に合せば、則ち禽獸草木も其の澤を被らざる莫し。而るに況んや兆民をや。
現代語訳
強いものが弱くなり、弱いものが強くなり、危ういものが安らかになり、保たれていたものが亡ぶ。ここまで来ると、聖人でなければ誰が見て取れよう。大小や尊卑では論じるに足りない。ただ道のあるところを貴いとする。どうしてそれが明らかか。天子が郊外の亭にいれば、九卿は小走りし、大夫は駆け、座っていた者は伏し、寄りかかっていた者は居ずまいを正す。そのとき、明堂や太廟のほうでは、冠を掛け剣を解き、帯をゆるめて寝ている。郊外の亭が大きくて廟堂が狭いからではない。この上なく尊い人がそこにいるからである。天の道が貴いのは、天子だけが尊いからではない。それがあるところを人々が仰ぐのである。冬ごもりの虫や鵲の巣が、みな天の一つの方角に向くのは、極みの和がそこにあるからである。帝が本当に道を受け容れ、極みの和に合えば、鳥獣も草木もその恵みを被らないものはない。まして万民ならなおさらである。
解説
この章句が説くこと
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