淮南子 / 氾論訓
秦之時,高為臺榭,大為苑囿,遠為馳道,鑄金人,發適戍,入芻稿,頭會箕賦,輸於少府。丁壯丈夫,西至臨洮、狄道,東至會稽、浮石,南至豫章、桂林,北至飛狐、陽原,道路死人以溝量。當此之時,忠諫者謂之不祥,而道仁義者謂之狂。逮至高皇帝,存亡繼絕,舉天下之大義,身自奮袂執銳,以為百姓請命于皇天。當此之時,天下雄俊豪英暴露于野澤,前蒙矢石,而後墮谿壑,出百死而紿一生,以爭天下之權,奮武厲誠,以決一旦之命。當此之時,豐衣博帶而道儒墨者,以為不肖。逮至暴亂已勝,海內大定,繼文之業,立武之功,履天子之圖籍,造劉氏之貌冠,總鄒、魯之儒墨,通先聖之遺教,戴天子之旗,乘大路,建九斿,撞大鐘,擊鳴鼓,奏咸池,揚干戚。當此之時,有立武者見疑。一世之間,而文武代為雌雄,有時而用也。
新字:秦之時,高為台榭,大為苑囿,遠為馳道,鋳金人,発適戍,入芻稿,頭会箕賦,輸於少府。丁壮丈夫,西至臨洮、狄道,東至会稽、浮石,南至予章、桂林,北至飛狐、陽原,道路死人以溝量。当此之時,忠諫者謂之不祥,而道仁義者謂之狂。逮至高皇帝,存亡継絶,舉天下之大義,身自奮袂執鋭,以為百姓請命于皇天。当此之時,天下雄俊豪英暴露于野沢,前蒙矢石,而後堕谿壑,出百死而紿一生,以争天下之権,奮武厲誠,以決一旦之命。当此之時,豊衣博帯而道儒墨者,以為不肖。逮至暴乱已勝,海内大定,継文之業,立武之功,履天子之図籍,造劉氏之貌冠,総鄒、魯之儒墨,通先聖之遺教,戴天子之旗,乗大路,建九斿,撞大鐘,撃鳴鼓,奏咸池,揚干戚。当此之時,有立武者見疑。一世之間,而文武代為雌雄,有時而用也。
書き下し
秦の時、高く臺榭を爲り、大いに苑囿を爲り、遠く馳道を爲り、金人を鑄、適戍を發し、芻稿を入れ、頭會箕賦して、少府に輸す。丁壯丈夫、西は臨洮・狄道に至り、東は會稽・浮石に至り、南は豫章・桂林に至り、北は飛狐・陽原に至る。道路の死人 溝を以て量る。此の時に當たりて、忠諫する者を之を不祥と謂い、仁義を道う者を之を狂と謂う。高皇帝に逮び至りて、亡を存し絕を繼ぎ、天下の大義を舉げ、身自ら袂を奮い銳を執り、以て百姓の爲に命を皇天に請う。此の時に當たりて、天下の雄俊豪英 野澤に暴露し、前には矢石を蒙り、而して後には谿壑に墮つ。百死を出でて一生を紿け、以て天下の權を爭い、武を奮い誠を厲まして、以て一旦の命を決す。此の時に當たりて、豐衣博帶して儒墨を道う者は、以て不肖と爲す。暴亂 已に勝ち、海內 大いに定まるに逮び至りて、文の業を繼ぎ、武の功を立て、天子の圖籍を履み、劉氏の貌冠を造り、鄒・魯の儒墨を總べ、先聖の遺教に通じ、天子の旗を戴き、大路に乘り、九斿を建て、大鐘を撞き、鳴鼓を擊ち、咸池を奏し、干戚を揚ぐ。此の時に當たりて、武を立つる者有れば疑わる。一世の間にして、文武 代わる代わる雌雄を爲す。時有りて用うるなり。
現代語訳
秦の時代は、高く台や楼を作り、大きく庭園を作り、遠くまで馳道を通し、金の人形を鋳、罪人を辺境の守りに送り、飼葉を納めさせ、人数割りで税を取り立て、少府に納めた。働き盛りの男は、西は臨洮や狄道、東は会稽や浮石、南は豫章や桂林、北は飛狐や陽原まで送られた。道端の死人は溝で量るほどだった。このときには、忠義から諫める者は不吉と呼ばれ、仁義を語る者は狂人と呼ばれた。高祖の時代になると、滅びたものを存え絶えたものを継ぎ、天下の大義を掲げ、自ら袖をまくり刃を執って、民のために天に命を請うた。このときには、天下の英傑は野にさらされ、前は矢石を浴び、後ろは谷に落ちた。百の死を潜って一つの生をかすめ取り、天下の権を争い、武を奮い誠を励まして、一日の命を決した。このときには、ゆったりした衣に広い帯で儒や墨を語る者は、役立たずとされた。乱がすでに鎮まり、天下が大いに定まると、文の業を継ぎ、武の功を立て、天子の図籍を受け、劉氏の冠を作り、鄒や魯の儒者と墨者を束ね、いにしえの聖人の遺した教えに通じ、天子の旗を掲げ、大きな車に乗り、九本の飾りを立て、大鐘を撞き、鳴り太鼓を打ち、咸池を奏し、盾と斧を揚げた。このときには、武を立てようとする者は疑われた。一つの世のうちに、文と武が入れ替わりで表と裏になる。時があって用いられるのである。
解説
この章句が説くこと
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