淮南子 / 俶真訓
是故聖人內修道術,而不外飾仁義,不知耳目之宣,而游于精神之和。若然者,下揆三泉,上尋九天,橫廓六合,揲貫萬物,此聖人之游也。若夫真人,則動溶于至虛,而游于滅亡之野,騎蜚廉而從敦圄,馳於外方,休乎宇內,燭十日而使風雨,臣雷公,役夸父,妾宓妃,妻織女,天地之間,何足以留其志!是故虛無者道之舍,平易者道之素。
新字:是故聖人内修道術,而不外飾仁義,不知耳目之宣,而游于精神之和。若然者,下揆三泉,上尋九天,横廓六合,揲貫万物,此聖人之游也。若夫真人,則動溶于至虚,而游于滅亡之野,騎蜚廉而従敦圄,馳於外方,休乎宇内,燭十日而使風雨,臣雷公,役夸父,妾宓妃,妻織女,天地之間,何足以留其志!是故虚無者道之舎,平易者道之素。
書き下し
是の故に聖人は内に道術を修めて、外に仁義を飾らず、耳目の宣を知らずして、精神の和に游ぶ。然る若き者は、下は三泉を揆り、上は九天を尋ね、六合を橫廓し、萬物を揲貫す。此れ聖人の游なり。夫の真人の若きは、則ち至虛に動溶して、滅亡の野に游び、蜚廉に騎りて敦圄に從い、外方に馳せ、宇内に休し、十日を燭して風雨を使い、雷公を臣とし、夸父を役し、宓妃を妾とし、織女を妻とす。天地の間、何ぞ以て其の志を留むるに足らん。是の故に虛無なる者は道の舍なり、平易なる者は道の素なり。
現代語訳
だから聖人は内で道術を修めて、外で仁義を飾らず、耳目の働きに頼らずに、精神の和に遊ぶ。そういう者は、下は三つの泉の深さを測り、上は九天を尋ね、天地四方を広げ渡り、万物を貫き通す。これが聖人の遊びである。真人となれば、この上ないうつろさのなかを動き、滅び去った野に遊び、風の神に乗り従者を連れ、外の方角に馳せ、宇宙の内に憩い、十の日を照らして風雨を使い、雷公を臣とし、夸父を働かせ、宓妃を側女とし、織女を妻とする。天地のあいだで、どうしてその志を引き留められよう。だから虚無は道の宿であり、平易は道の素地である。
解説
聖人と真人の遊び方を並べて、真人のほうを神話の言葉で描いた段です。雷神を臣とし、夸父を働かせ、織女を妻とする。誇張ですが、要点は最後の二句に畳まれています。「虛無なる者は道の舍なり、平易なる者は道の素なり」。道が住むのはうつろなところ、道の地肌は平らでやさしいところ。前半で「外に仁義を飾らず」と断ってあるので、飾りを外していくと残るものの名前が、この二つになります。
この章句が説くこと
聖人は内に道術を修めて外に仁義を飾らず耳目の宣を知らずして精神の和に游ぶ下は三泉を揆り上は九天を尋ね虚無なる者は道の舎なり平易なる者は道の素なり虚無平易
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『淮南子』原道訓夫れ井魚は與に大を語る可からず、隘に拘わればなり。夏蟲は與に寒を語る可からず、時に篤ければなり。曲士は與に至道を語る可からず、俗に拘わり、教に束ねらるればなり。故に聖人は人を以て天を滑さず、欲を以て情を亂さず、謀らずして當たり、言わずして信あり、慮らずして得、為さずして成り、精は靈府に通じ、造化者と人を為す。夫れ善く游ぐ者は溺れ、善く騎る者は墮つ。各ミ其の好む所を以て、反って自ら禍を為す。是の故に事を好む者は未だ嘗て中らずんばあらず、利を爭う者は未だ嘗て窮せずんばあらざるなり。昔共工の力、不周の山に觸れ、地をして東南に傾かしむ。高辛と帝爲るを爭い、遂に淵に潛み、宗族殘滅し、繼嗣祀を絕つ。越王翳山穴に逃れ、越人熏じて之を出だし、遂に已むを得ず。此に由りて之を觀れば、得るは時に在りて、爭うに在らず。治は道に在りて、聖に在らず。土は下に處りて、高きを爭わず、故に安くして危うからず。水は下に流れて、先を爭わず、故に疾くして遲れず。昔舜歷山に耕すこと期年にして、田する者墝埆を爭いて處り、壤の肥饒なるを以て相い讓る。河濱に釣ること期年にして、漁する者湍瀨を爭いて處り、曲隈深潭を以て相い予う。此の時に當たりて、口に言を設けず、手に指麾せず、玄德を心に執りて、化の馳すること神の若し。舜をして其の志無からしめば、口辯にして戶ごとに之を說くと雖も、一人をも化する能わず。是の故に不道の道は、莽乎として大なるかな。夫れ能く三苗を理め、羽民を朝せしめ、裸國を徙し、肅慎を納れ、未だ號を發し令を施さずして風を移し俗を易うる者は、其れ唯だ心行なる者か。法度刑罰、何ぞ以て之を致すに足らんや。是の故に聖人は内に其の本を修めて、外に其の末を飾らず、其の精神を保ちて、其の智故を偃せ、漠然として無為にして為さざる無く、澹然として無治にして治まらざる無し。所謂無為なる者は、物に先んじて為さざるなり。所謂為さざる無き者は、物の為す所に因るなり。所謂無治なる者は、自然を易えざるなり。所謂治まらざる無き者は、物の相い然るに因るなり。
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