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淮南子 / 齊俗訓

故明主制禮義而為衣,分節行而為帶。衣足以覆形,從典墳,虛循撓,便身體,適行步,不務於奇麗之容,隅眥之削。帶足以結紐收衽,束牢連固,不亟於為文句疏短之鞵。故制禮義,行至德,而不拘於儒墨。所謂明者,非謂其見彼也,自見而已。所謂聰者,非謂聞彼也,自聞而已。所謂達者,非謂知彼也,自知而已。是故身者,道之所託,身得則道得矣。道之得也,以視則明,以聽則聰,以言則公,以行則從。

新字:故明主制礼義而為衣,分節行而為帯。衣足以覆形,従典墳,虚循撓,便身体,適行歩,不務於奇麗之容,隅眥之削。帯足以結紐収衽,束牢連固,不亟於為文句疏短之鞵。故制礼義,行至徳,而不拘於儒墨。所謂明者,非謂其見彼也,自見而已。所謂聰者,非謂聞彼也,自聞而已。所謂達者,非謂知彼也,自知而已。是故身者,道之所託,身得則道得矣。道之得也,以視則明,以聴則聰,以言則公,以行則従。

書き下し

故に明主は禮義を制して衣と為し、節行を分ちて帶と為す。衣は以て形を覆うに足り、典墳に從い、虛循撓し、身體に便にし、行步に適い、奇麗の容、隅眥の削に務めず。帶は以て紐を結び衽を收め、束ね牢くし連ね固くするに足り、文句疏短の鞵を為すに亟がず。故に禮義を制し、至德を行いて、儒墨に拘わらず。所謂 明とは、其の彼を見るを謂うに非ず、自ら見るのみ。所謂 聰とは、彼を聞くを謂うに非ず、自ら聞くのみ。所謂 達とは、彼を知るを謂うに非ず、自ら知るのみ。是の故に身なる者は、道の託する所なり。身 得れば則ち道 得たり。道の得らるるや、以て視れば則ち明、以て聽けば則ち聰、以て言えば則ち公、以て行えば則ち從わる。

現代語訳

だから明君は礼義を仕立てて衣とし、節度ある行いを分けて帯とする。衣は体を覆うに足り、古い書に従い、ゆるやかにしなやかで、体に楽で、歩きやすく、珍しく美しい形や、隅の細かい裁ちに凝らない。帯は紐を結び襟を納め、しっかりと束ね固く連ねるに足り、模様や細かい仕立ての凝った履き物を急がない。だから礼義を仕立て、至極の徳を行って、儒家にも墨家にも縛られない。いわゆる明とは、相手を見ることではなく、自分を見ることである。いわゆる聡とは、相手を聞くことではなく、自分を聞くことである。いわゆる達とは、相手を知ることではなく、自分を知ることである。だから身は道の宿るところである。身を得れば道を得たことになる。道が得られれば、それで見れば明るく、聞けば聡く、言えば公平で、行えば人が従う。

解説

礼義を衣、節度ある行いを帯にたとえます。衣は体を覆えばよく、帯は襟を納めて固く結べればよい。凝った裁ちや飾りには手を出さない。そのうえで三つの定義が来ます。「所謂 明とは、其の彼を見るを謂うに非ず、自ら見るのみ」。明も聡も達も、向きが外ではなく自分に向いている。よく見える人とは、他人がよく見える人ではなく、自分が見えている人だ、と。

この章句が説くこと

明主は礼義を制して衣と為し節行を分ちて帯と為す衣は以て形を覆うに足り奇麗の容に務めず所謂明とは其の彼を見るを謂うに非ず自ら見るのみ所謂達とは彼を知るを謂うに非ず自ら知るのみ身なる者は道の託する所なり身得れば則ち道得たり自知

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