淮南子 / 齊俗訓
談語而不稱師,是返也。交淺而言深,是亂也。」賓曰:「望君而笑,是公也。談語而不稱師,是通也。交淺而言深,是忠也。」故賓之容一體也,或以為君子,或以為小人,所自視之異也。故趣舍合,即言忠而益親;身疏,即謀當而見疑。親母為其子治扢禿,而血流至耳,見者以為其愛之至也;使在於繼母,則過者以為嫉也。事之情一也,所從觀者異也。從城上視牛如羊,視羊如豕,所居高也。窺面於盤水則員,於杯則隋。面形不變其故,有所員、有所隋者,所自窺之異也。
新字:談語而不称師,是返也。交浅而言深,是乱也。」賓曰:「望君而笑,是公也。談語而不称師,是通也。交浅而言深,是忠也。」故賓之容一体也,或以為君子,或以為小人,所自視之異也。故趣舎合,即言忠而益親;身疏,即謀当而見疑。親母為其子治扢禿,而血流至耳,見者以為其愛之至也;使在於継母,則過者以為嫉也。事之情一也,所従観者異也。従城上視牛如羊,視羊如豕,所居高也。窺面於盤水則員,於杯則隋。面形不変其故,有所員、有所隋者,所自窺之異也。
書き下し
「談語して師を稱せざるは、是れ返なり。交わり淺くして言うこと深きは、是れ亂なり」と。賓曰く、「君を望みて笑うは、是れ公なり。談語して師を稱せざるは、是れ通なり。交わり淺くして言うこと深きは、是れ忠なり」と。故に賓の容は一體なるに、或いは以て君子と為し、或いは以て小人と為すは、自ら之を視るの異なればなり。故に趣舍 合すれば、即ち言 忠にして益々親しむ。身 疏なれば、即ち謀 當たりて疑わる。親母 其の子の為に扢禿を治めて、血 流れて耳に至るも、見る者は以為えらく其の之を愛するの至れるなりと。繼母に在らしむれば、則ち過ぐる者は以て嫉むと為す。事の情は一なるも、從りて觀る所の者 異なればなり。城上より牛を視れば羊の如く、羊を視れば豕の如し。居る所 高ければなり。面を盤水に窺えば則ち員く、杯にすれば則ち隋し。面形 其の故を變ぜざるも、員き所有り隋き所有るは、自ら窺う所の異なればなり。
現代語訳
「話をして師の名を挙げないのは、道理に背いている。交わりが浅いのに深いところまで言うのは、乱れている」。客は言った、「あなたを見て笑ったのは、公明だからです。話をして師の名を挙げないのは、通じているからです。交わりが浅いのに深く言うのは、忠だからです」。だから客の振る舞いは同じ一つなのに、ある人は君子と見、ある人は小人と見る。見る側が違うからである。だから好みが合っていれば、言葉は忠と受け取られてますます親しくなる。身が疎まれていれば、謀が当たっていても疑われる。実の母が我が子のできものを治療して、血が流れて耳まで垂れても、見る者は愛情が深いのだと思う。それが継母であれば、通りかかった者は憎んでいるのだと思う。事の実情は同じなのに、どこから見るかが違うのである。城の上から牛を見れば羊のようで、羊を見れば豚のようだ。いる場所が高いからである。顔を盥の水に映せば丸く、杯に映せば細長い。顔の形は変わっていないのに、丸くも細長くもなるのは、どこから覗くかが違うからである。
解説
この章句が説くこと
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説苑・善說齊景公子貢に謂いて曰く、「子誰をか師とする。」曰く、「臣仲尼を師とす。」公曰く、「仲尼賢なるか。」對えて曰く、「賢なり。」公曰く、「其の賢たること何如。」對えて曰く、「知らざるなり。」公曰く、「子其の賢を知りて其の奚若たるを知らざるは、可ならんか。」對えて曰く、「今天高しと謂うに、少長愚智と無く皆高きを知る。高きこと幾何ぞや。皆知らずと曰う。是を以て仲尼の賢を知りて其の奚若たるを知らざるなり。」
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