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淮南子 / 齊俗訓

今吾雖欲正身而待物,庸遽知世之所自窺我者乎!若轉化而與世競走,譬猶逃雨也,無之而不濡。常欲在於虛,則有不能為虛矣;若夫不為虛而自虛者,此所慕而不能致也。故通於道者,如車軸,不運於己,而與轂致千里,轉無窮之原也。不通於道者,若迷惑,告以東西南北,所居聆聆,一曲而辟,然忽不得,復迷惑也。故終身隸於人,辟若俔之見風也,無須臾之閒定矣。故聖人體道反性,不化以待化,則幾於免矣。

新字:今吾雖欲正身而待物,庸遽知世之所自窺我者乎!若転化而与世競走,譬猶逃雨也,無之而不濡。常欲在於虚,則有不能為虚矣;若夫不為虚而自虚者,此所慕而不能致也。故通於道者,如車軸,不運於己,而与轂致千里,転無窮之原也。不通於道者,若迷惑,告以東西南北,所居聆聆,一曲而辟,然忽不得,復迷惑也。故終身隸於人,辟若俔之見風也,無須臾之閒定矣。故聖人体道反性,不化以待化,則幾於免矣。

書き下し

今 吾 身を正して物を待たんと欲すと雖も、庸ぞ遽かに世の自ら我を窺う所の者を知らんや。若し轉化して世と競い走らば、譬えば猶お雨を逃るるがごとく、之く無くして濡れざるは無し。常に虛に在らんと欲せば、則ち虛を為す能わざる有り。夫の虛を為さずして自ら虛なる者の若きは、此れ慕う所にして致す能わざるなり。故に道に通ずる者は、車軸の如く、己に運らずして、轂と千里を致し、無窮の原に轉ずるなり。道に通ぜざる者は、迷惑するが若く、告ぐるに東西南北を以てするも、居る所 聆聆として、一曲にして辟け、然も忽ち得ずして、復た迷惑するなり。故に終身 人に隸たること、辟えば俔の風に見わるるが若く、須臾の閒も定まる無し。故に聖人は道を體し性に反り、化せずして以て化を待つ。則ち免るるに幾し。

現代語訳

いま私が身を正して物事を待とうとしても、世の人がどこから私を覗いているのかを、たちまち知ることなどできようか。もし移り変わりに合わせて世と競って走れば、たとえば雨から逃げるようなもので、どこへ行っても濡れないことはない。常に虚しくあろうと思えば、かえって虚しくなれない。虚しくあろうとせずにおのずと虚しい者のようであることは、慕っても届かないところである。だから道に通じた者は車軸のようなもので、自分では回らないのに、輪とともに千里に至り、限りのない原を転がっていく。道に通じていない者は迷った人のようで、東西南北を教えられても、その場では分かった顔をして、一つの角を曲がった途端、たちまち分からなくなってまた迷う。だから生涯人に隷属することは、風見が風に翻るようなもので、わずかの間も定まらない。だから聖人は道を体とし性に返り、自分が変わらないことによって変化を待つ。それでほぼ免れられる。

解説

評価の主導権は自分にないと認めたうえで、どうするかの話です。「若し轉化して世と競い走らば、譬えば猶お雨を逃るるがごとく」。世の変化に合わせて走り回るのは、雨から逃げるのと同じで必ず濡れる。代わりに置かれるのが車軸の像でした。「己に運らずして、轂と千里を致し」。自分は回らないのに、輪とともに千里に至る。動かない一点があるから、遠くまで行ける、と。

この章句が説くこと

庸ぞ遽かに世の自ら我を窺う所の者を知らんや転化して世と競い走らば譬えば猶お雨を逃るるがごとく之く無くして濡れざるは無し常に虚に在らんと欲せば則ち虚を為す能わざる有り道に通ずる者は車軸の如く己に運らずして轂と千里を致す聖人は道を体し性に反り化せずして以て化を待つ

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