淮南子 / 脩務訓
通於物者,不可驚以怪;喻於道者,不可動以奇;察於辭者,不可耀以名;審於形者,不可遯以狀。世俗之人,多尊古而賤今,故為道者必托之于神農、黃帝而後能入說。亂世暗主,高遠其所從來,因而貴之。為學者蔽于論而尊其所聞,相與危坐而稱之,正領而誦之。此見是非之分不明。
新字:通於物者,不可驚以怪;喩於道者,不可動以奇;察於辞者,不可耀以名;審於形者,不可遯以状。世俗之人,多尊古而賤今,故為道者必托之于神農、黄帝而後能入説。乱世暗主,高遠其所従来,因而貴之。為学者蔽于論而尊其所聞,相与危坐而称之,正領而誦之。此見是非之分不明。
書き下し
物に通ずる者は、驚かすに怪を以てす可からず。道に喻る者は、動かすに奇を以てす可からず。辭に察かなる者は、耀かすに名を以てす可からず。形に審らかなる者は、遯るるに狀を以てす可からず。世俗の人は、多く古を尊びて今を賤しむ。故に道を爲す者は必ず之を神農・黃帝に托して而る後に能く說に入る。亂世暗主は、其の從りて來たる所を高遠にして、因りて之を貴ぶ。學を爲す者は論に蔽われて其の聞く所を尊び、相い與に危坐して之を稱し、領を正して之を誦す。此れ是非の分を見ること明らかならざるなり。
現代語訳
物に通じた者は、怪しいことで驚かせられない。道を悟った者は、奇抜なことで動かせない。言葉に通じた者は、名声でまばゆがらせられない。形に明るい者は、見かけでごまかされない。世の人は、たいてい古いものを尊び今のものを賤しむ。だから道を説く者は、必ず神農や黄帝に託してからでないと、話を聞いてもらえない。乱世の暗い君主は、出どころが遠く高いというだけで、それを貴ぶ。学ぶ者も議論に覆われて自分が聞いたことを尊び、そろって居ずまいを正してそれを称え、襟を正して唱える。これは是と非の分かれ目を見ることが、はっきりしていないのである。
解説
この章句が説くこと
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