淮南子 / 原道訓
夫井魚不可與語大,拘於隘也;夏蟲不可與語寒,篤於時也;曲士不可與語至道,拘於俗,束於教也。故聖人不以人滑天,不以欲亂情,不謀而當,不言而信,不慮而得,不為而成,精通於靈府,與造化者為人。夫善游者溺,善騎者墮,各以其所好,反自為禍。是故好事者未嘗不中,爭利者未嘗不窮也。昔共工之力,觸不周之山,使地東南傾。與高辛爭為帝,遂潛於淵,宗族殘滅,繼嗣絕祀。越王翳逃山穴,越人熏而出之,遂不得已。由此觀之,得在時,不在爭;治在道,不在聖。土處下,不爭高,故安而不危;水下流,不爭先,故疾而不遲。昔舜耕於歷山,期年,而田者爭處墝埆,以封壤肥饒相讓;釣於河濱,期年,而漁者爭處湍瀨,以曲隈深潭相予。當此之時,口不設言,手不指麾,執玄德於心,而化馳若神。使舜無其志,雖口辯而戶說之,不能化一人。是故不道之道,莽乎大哉!夫能理三苗,朝羽民,徙裸國,納肅慎;未發號施令而移風易俗者,其唯心行者乎!法度刑罰,何足以致之也?是故聖人內修其本,而不外飾其末,保其精神,偃其智故,漠然無為而無不為也,澹然無治也而無不治也。所謂無為者,不先物為也;所謂無不為者,因物之所為。所謂無治者,不易自然也;所謂無不治者,因物之相然也。
新字:夫井魚不可与語大,拘於隘也;夏虫不可与語寒,篤於時也;曲士不可与語至道,拘於俗,束於教也。故聖人不以人滑天,不以欲乱情,不謀而当,不言而信,不慮而得,不為而成,精通於霊府,与造化者為人。夫善游者溺,善騎者堕,各以其所好,反自為禍。是故好事者未嘗不中,争利者未嘗不窮也。昔共工之力,触不周之山,使地東南傾。与高辛争為帝,遂潜於淵,宗族残滅,継嗣絶祀。越王翳逃山穴,越人熏而出之,遂不得已。由此観之,得在時,不在争;治在道,不在聖。土処下,不争高,故安而不危;水下流,不争先,故疾而不遅。昔舜耕於歴山,期年,而田者争処墝埆,以封壤肥饒相譲;釣於河浜,期年,而漁者争処湍瀨,以曲隈深潭相予。当此之時,口不設言,手不指麾,執玄徳於心,而化馳若神。使舜無其志,雖口弁而戸説之,不能化一人。是故不道之道,莽乎大哉!夫能理三苗,朝羽民,徙裸国,納粛慎;未発号施令而移風易俗者,其唯心行者乎!法度刑罰,何足以致之也?是故聖人内修其本,而不外飾其末,保其精神,偃其智故,漠然無為而無不為也,澹然無治也而無不治也。所謂無為者,不先物為也;所謂無不為者,因物之所為。所謂無治者,不易自然也;所謂無不治者,因物之相然也。
書き下し
夫れ井魚は與に大を語る可からず、隘に拘わればなり。夏蟲は與に寒を語る可からず、時に篤ければなり。曲士は與に至道を語る可からず、俗に拘わり、教に束ねらるればなり。故に聖人は人を以て天を滑さず、欲を以て情を亂さず、謀らずして當たり、言わずして信あり、慮らずして得、為さずして成り、精は靈府に通じ、造化者と人を為す。夫れ善く游ぐ者は溺れ、善く騎る者は墮つ。各ミ其の好む所を以て、反って自ら禍を為す。是の故に事を好む者は未だ嘗て中らずんばあらず、利を爭う者は未だ嘗て窮せずんばあらざるなり。昔共工の力、不周の山に觸れ、地をして東南に傾かしむ。高辛と帝爲るを爭い、遂に淵に潛み、宗族殘滅し、繼嗣祀を絕つ。越王翳山穴に逃れ、越人熏じて之を出だし、遂に已むを得ず。此に由りて之を觀れば、得るは時に在りて、爭うに在らず。治は道に在りて、聖に在らず。土は下に處りて、高きを爭わず、故に安くして危うからず。水は下に流れて、先を爭わず、故に疾くして遲れず。昔舜歷山に耕すこと期年にして、田する者墝埆を爭いて處り、壤の肥饒なるを以て相い讓る。河濱に釣ること期年にして、漁する者湍瀨を爭いて處り、曲隈深潭を以て相い予う。此の時に當たりて、口に言を設けず、手に指麾せず、玄德を心に執りて、化の馳すること神の若し。舜をして其の志無からしめば、口辯にして戶ごとに之を說くと雖も、一人をも化する能わず。是の故に不道の道は、莽乎として大なるかな。夫れ能く三苗を理め、羽民を朝せしめ、裸國を徙し、肅慎を納れ、未だ號を發し令を施さずして風を移し俗を易うる者は、其れ唯だ心行なる者か。法度刑罰、何ぞ以て之を致すに足らんや。是の故に聖人は内に其の本を修めて、外に其の末を飾らず、其の精神を保ちて、其の智故を偃せ、漠然として無為にして為さざる無く、澹然として無治にして治まらざる無し。所謂無為なる者は、物に先んじて為さざるなり。所謂為さざる無き者は、物の為す所に因るなり。所謂無治なる者は、自然を易えざるなり。所謂治まらざる無き者は、物の相い然るに因るなり。
現代語訳
そもそも井戸の魚とは大きなものを語れない。狭いところに縛られているからだ。夏の虫とは寒さを語れない。その季節に閉じられているからだ。偏った士とは至高の道を語れない。俗に縛られ、教えに束ねられているからだ。だから聖人は人為で天を乱さず、欲で情を乱さず、謀らずに当たり、言わずに信じられ、思案せずに得、行わずに成し、その精は霊妙な蔵に通じ、造化する者と親しむ。そもそも泳ぎのうまい者が溺れ、乗馬のうまい者が落ちる。それぞれ好むところによって、かえって自ら禍いを招く。だから事を好む者は必ず巻き込まれ、利を争う者は必ず行き詰まる。昔、共工は力にまかせて不周の山にぶつかり、地を東南に傾けた。高辛と帝の位を争い、ついに淵に潜み、一族は滅び、後継ぎは祭祀を絶やした。越王翳は山の洞穴に逃げ、越の人が煙でいぶして引き出し、とうとうやむを得なかった。ここから見れば、得るのは時にかかっており、争うことにはない。治まるのは道にかかっており、聖人であることにはない。土は下にいて高さを争わない、だから安らかで危うくない。水は下に流れて先を争わない、だから速くて遅れない。昔、舜が歴山で耕して一年たつと、田を作る者は痩せた土地を争って取り、肥えた土をゆずり合った。黄河のほとりで釣って一年たつと、漁る者は流れの速い瀬を争って取り、淵をゆずり合った。このとき、口で言葉をこしらえず、手で指図もせず、奥深い徳を心に握って、感化は神のように走った。もし舜にその志がなければ、弁が立って家ごとに説いて回っても、一人も変えられなかっただろう。だから道によらない道は、はるかに大きい。三苗を治め、羽民を朝見させ、裸国を移し、粛慎を受け入れ、号令を出さないまま風俗を変えた者は、ただ心で行った者だけであろう。法度や刑罰で、どうしてそこまで届こうか。だから聖人は内でその根本を修めて、外でその末を飾らず、その精神を保って、その知恵と作為を伏せ、あっさりと何もしないでいて行わないことがなく、静かに治めないでいて治まらないことがない。無為というのは、物に先んじて行わないことである。行わないことがないというのは、物が行うところに従うということである。治めないというのは、自然を変えないことである。治まらないことがないというのは、物が互いにそうなるのに従うということである。
解説
この章句が説くこと
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