淮南子 / 說山訓
無為而治者,載無也。為者,不能有也;不能無為者,不能有為也。人無言而神,有言者則傷。無言而神者載無,有言則傷其神。之神者,鼻之所以息,耳之所以聽,終以其無用者為用矣。物莫不因其所有而用其所無,以為不信,視籟與竽。念慮者不得臥,止念慮,則有為其所止矣。兩者俱忘,則至德純矣。
新字:無為而治者,載無也。為者,不能有也;不能無為者,不能有為也。人無言而神,有言者則傷。無言而神者載無,有言則傷其神。之神者,鼻之所以息,耳之所以聴,終以其無用者為用矣。物莫不因其所有而用其所無,以為不信,視籟与竽。念慮者不得臥,止念慮,則有為其所止矣。両者倶忘,則至徳純矣。
書き下し
無爲にして治まる者は、無を載すればなり。爲す者は、有つ能わざるなり。無爲なる能わざる者は、有爲なる能わざるなり。人 言無くして神なり、言有る者は則ち傷る。言無くして神なる者は無を載すればなり、言有れば則ち其の神を傷る。之の神なる者は、鼻の息する所以、耳の聽く所以にして、終に其の無用なる者を以て用と爲す。物 其の有る所に因りて其の無き所を用いざる莫し。以て信ならずと爲さば、籟と竽とを視よ。念慮する者は臥するを得ず。念慮を止むれば、則ち其の止まる所を爲す有り。兩つながら俱に忘るれば、則ち至德 純なり。
現代語訳
何もしないで治まるのは、無を載せているからである。何かをする者は、持つことができない。何もしないでいられない者は、何かをすることもできない。人は言葉がなくて神妙であり、言葉があれば損なわれる。言葉がなくて神妙なのは無を載せているからで、言葉があればその神妙さを損なう。この神妙さは、鼻が息をする理由であり、耳が聴く理由であって、結局は用のないもののほうを用としている。物はどれも、有るものに拠って無いところを用いている。それが本当でないと思うなら、笛と竽を見よ。思いわずらう者は眠れない。思いわずらいを止めれば、その止まったところに何かが生じる。どちらも忘れてしまえば、至極の徳が純粋になる。
解説
「物 其の有る所に因りて其の無き所を用いざる莫し」。物は、有るものによって、無いところを使っている。証拠として笛が挙がります。竹があるから穴があり、鳴るのは穴のほうです。息も聴覚も同じで、通っている空きが働いている。思いわずらいを止めるだけでは、止めたことが新しい引っかかりになる。だから「兩つながら俱に忘るれば」と念を押します。
この章句が説くこと
無為にして治まる者は無を載すればなり人言無くして神なり言有る者は則ち傷る終に其の無用なる者を以て用と為す物其の有る所に因りて其の無き所を用いざる莫し以て信ならずと為さば籟と竽とを視よ念慮を止むれば則ち其の止まる所を為す有り両つながら倶に忘るれば則ち至徳純なり無用の用
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