淮南子 / 主術訓
古者天子聽朝,公卿正諫,博士誦詩,瞽箴師誦,庶人傳語,史書其過,宰徹其膳。猶以為未足也,故堯置敢諫之鼓,舜立誹謗之木,湯有司直之人,武王立戒慎之鞀。過若豪厘,而既已備之也。夫聖人之于善也,無小而不舉;其於過也,無微而不改。堯、舜、禹、湯、文、武,皆坦然天下而南面焉。當此之時,鼛鼓而食,奏《雍》而徹,已飯而祭灶,行不用巫祝,鬼神弗敢祟,山川弗敢禍,可謂至貴矣。然而戰戰慄栗,日慎一日。由此觀之,則聖人之心小矣。《詩》雲:惟此文王,小心翼翼,昭事上帝,聿懷多福。」其斯之謂歟!武王伐紂,發钜橋之粟,散鹿台之錢,封比干之墓,表商容之閭,朝成湯之廟,解箕子之囚。使各處其宅,田其田,無故無新,惟賢是親,用非其有,使非其人,晏然若故有之。由此觀之,則聖人之志大也。文王、周公觀得失,遍覽是非,堯、舜所以昌,桀、紂所以亡者,皆著於明堂,於是略智博問,以應無方。由此觀之,則聖人之智員矣。
新字:古者天子聴朝,公卿正諫,博士誦詩,瞽箴師誦,庶人伝語,史書其過,宰徹其膳。猶以為未足也,故堯置敢諫之鼓,舜立誹謗之木,湯有司直之人,武王立戒慎之鞀。過若豪厘,而既已備之也。夫聖人之于善也,無小而不舉;其於過也,無微而不改。堯、舜、禹、湯、文、武,皆坦然天下而南面焉。当此之時,鼛鼓而食,奏《雍》而徹,已飯而祭灶,行不用巫祝,鬼神弗敢祟,山川弗敢禍,可謂至貴矣。然而戦戦慄栗,日慎一日。由此観之,則聖人之心小矣。《詩》雲:惟此文王,小心翼翼,昭事上帝,聿懐多福。」其斯之謂歟!武王伐紂,発钜橋之粟,散鹿台之銭,封比干之墓,表商容之閭,朝成湯之廟,解箕子之囚。使各処其宅,田其田,無故無新,惟賢是親,用非其有,使非其人,晏然若故有之。由此観之,則聖人之志大也。文王、周公観得失,遍覧是非,堯、舜所以昌,桀、紂所以亡者,皆著於明堂,於是略智博問,以応無方。由此観之,則聖人之智員矣。
書き下し
古者 天子 朝を聽くに、公卿は正諫し、博士は詩を誦し、瞽は箴し師は誦し、庶人は語を傳え、史は其の過ちを書し、宰は其の膳を徹す。猶お以て未だ足らずと為す。故に堯は敢諫の鼓を置き、舜は誹謗の木を立て、湯は司直の人有り、武王は戒慎の鞀を立つ。過ち 豪厘の若きも、既已に之に備うるなり。夫れ聖人の善に於けるや、小として舉げざる無し。其の過ちに於けるや、微として改めざる無し。堯・舜・禹・湯・文・武は、皆な坦然として天下し南面す。此の時に當たりて、鼛鼓して食い、《雍》を奏して徹し、已に飯して灶を祭る。行くに巫祝を用いず、鬼神も敢えて祟らず、山川も敢えて禍せず。至貴と謂う可し。然れども戰戰慄栗として、日々に一日を慎む。此に由りて之を觀れば、則ち聖人の心 小なり。『詩』に云う、「惟れ此の文王、小心翼翼として、昭かに上帝に事え、聿に多福を懷く」と。其れ斯れ之を謂うか。武王 紂を伐ちて、钜橋の粟を發き、鹿台の錢を散じ、比干の墓を封じ、商容の閭を表し、成湯の廟に朝し、箕子の囚を解く。各々其の宅に處り、其の田を田せしめ、故無く新無く、惟だ賢のみ是れ親しみ、其の有に非ざるを用い、其の人に非ざるを使いて、晏然として故より之を有つが若し。此に由りて之を觀れば、則ち聖人の志 大なり。文王・周公 得失を觀、遍く是非を覽、堯・舜の昌えし所以、桀・紂の亡びし所以の者、皆な明堂に著す。是に於いて智を略にし博く問いて、以て無方に應ず。此に由りて之を觀れば、則ち聖人の智 員なり。
現代語訳
昔、天子が朝政を聴くときは、公卿は正面から諫め、博士は詩を誦し、盲目の楽人は戒めを述べ、楽師は誦し、庶人は言葉を取り次ぎ、史官はその過ちを書き、料理役はその膳を減らした。それでもまだ足りないとした。だから堯はあえて諫めるための太鼓を置き、舜は謗りを書きつける木を立て、湯には正しさを司る役人があり、武王は戒め慎むための鼓を立てた。過ちが毛筋ほどであっても、あらかじめ備えていたのである。聖人は善に対しては、小さいからと取り上げないことがなく、過ちに対しては、微かだからと改めないことがない。堯・舜・禹・湯・文王・武王は、みな悠々と天下にあって南面した。このときは太鼓を鳴らして食べ、雍の楽を奏して膳を下げ、食べ終われば竈を祭った。出かけるのに巫を使わず、鬼神もあえて祟らず、山川もあえて禍しなかった。至って貴いといえる。それでも身を震わせるように、日ごと一日を慎んだ。これによって見れば、聖人の心は小さい。『詩』に言う、「この文王、小さな心で慎ましく、明らかに上帝に仕え、多くの福を得た」。まさにこのことだろう。武王は紂を討って、鉅橋の粟を開き、鹿台の銭を散じ、比干の墓を封じ、商容の里を表彰し、成湯の廟に朝し、箕子の囚われを解いた。それぞれその家に住まわせ、その田を耕させ、古いも新しいもなく、ただ賢い者とだけ親しみ、自分のものでないものを用い、自分の人でない者を使いながら、平然と昔から持っていたかのようであった。これによって見れば、聖人の志は大きい。文王と周公は得失を観、あまねく是非を覧て、堯と舜が栄えた理由、桀と紂が亡んだ理由を、みな明堂に記した。そこで自分の知恵は控えめにして広く問い、定まった形のないものに応じた。これによって見れば、聖人の知恵は円い。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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説苑・君道或るひと趙の簡子に謂いて曰く、「君何ぞ更めざるか」と。簡子曰く、「諾」と。左右曰く、「君未だ過ち有らず、何ぞ更めん」と。君曰く、「吾是れ諾と謂うは、未だ必ずしも過ち有るにあらざるなり。吾将に求めて以て諫むる者を来さんとするなり。今我之を却けば、是れ諫むる者を却くるなり。諫むる者必ず止み、我が過ち日無からん」と。
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葉隠・聞書第一御縁組(ごえんぐみ)の時、何某(なにがし)一分(いちぶん)を申し達し候。この事、若き衆(しゅう)よく心得(こころえ)置くべき事なり。その身(み)気味(きみ)よく思うて、云(い)ふべき事を云うて腹切(はらき)りても本望(ほんもう)と思ふべし。よくよく了簡(りょうけん)候へ、何の益(えき)にも立たぬ事なり。我(われ)かやうの事を云うて腹切りても本望と思ふは、なるほど聞(きこ)えたり。曲者(くせもの)などと思ふは以(もっ)ての外(ほか)なる取違(とりちが)ひなり。まづ申し出でたる事その詮(せん)なく、我が身は引き取り、御養育(ごよういく)も仕(つかまつ)らず、追付(おっつ)け御死去(ごしきょ)なされ候に、御看病(ごかんびょう)も仕らず、残念千万(ざんねんせんばん)なり。気過(きす)ぎなる人は多分(たぶん)誤(あやま)る所なり。総(そう)じてその位(くらい)に至らずして諫言(かんげん)するは却(かえ)つて不忠(ふちゅう)なり。誠(まこと)の者ならば、我が存(ぞん)じ寄りたる事を似合(にあ)ひたる人に潜(ひそ)かに内談(ないだん)して、その人の思ひ寄りにさせて云へば、その事調(ととの)はるなり。これ忠節(ちゅうせつ)なり。もし、内談にてその人請(う)け合はずば、また外(ほか)の人にも内談し、とかく色々心遣(こころづか)ひをして、その事さへ調はるる様にすれば、大忠節(だいちゅうせつ)も知れぬ様にして居るものなり。幾人(いくにん)に内談しても、埒(らち)明かざる時は力に及ばず、その分(ぶん)にて打ち過ぎ、または起こし立て起こし立てすれば、多分叶(かな)ふものなり。我こそ曲者と云はるる名聞(みょうもん)ばかりにて、我が手柄(てがら)にするゆゑ調はざるなり。申し出でたる事益には立たず、人に難(なん)ぜられ、我が身を崩(くず)したる人数多(あまた)これあるなり。畢竟(ひっきょう)真(しん)の志(こころざし)なきゆゑなり。我が身を一向(いっこう)に捨て捨てて、主君の上(うえ)どうなりとも好き様にとさへ思へば、紛(まぎ)るる事はこれなく候なり。
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葉隠・聞書第一主人に諫言(かんげん)をするに色々あるべし。志(こころざし)の諫言は、脇(わき)に知れぬ様にするなり。御気(おんき)にさからわぬ様にして御癖(おんくせ)を直し申すものなり。細川頼之(ほそかわよりゆき)が忠義などなり。昔、御道中にて、御年寄(おとしより)何某(なにがし)承り、「某(それがし)、一命を捨てて申し上ぐべく候。段々御延引(ごえんいん)の上に脇寄(わきよ)りなど遊ばされ候節(せつ)、以ての外(ほか)然(しか)るべからず候。」と、諸人(しょにん)に向かい、「御暇乞(おいとまごい)仕り候。」と詞(ことば)を渡し、行水(ぎょうずい)、白帷子(しろかたびら)下着(したぎ)にて御前(ごぜん)へ罷出(まかりい)でられ、追付(おっつけ)退出、また諸人に向かい、「拙者(せっしゃ)申し上げ候儀、聞召(きこしめ)し分けられ本望至極(ほんもうしごく)、皆様へ一度御目に懸(かか)り候儀、不思議の仕合(しあわ)せ。」など広言(こうげん)申され候。これ皆、主人の非を顕(あらわ)し、我が忠を揚げ、威勢(いせい)を立つる仕事なり。多分、他国者(たこくもの)にこれあるなり。
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葉隠・聞書第一諫言(かんげん)の道に、我(われ)其の位(くらい)にあらずば、其の位の人に言はせて、御誤(おあやまり)直(なお)る様にするが大忠(たいちゅう)なり。此の階(かい)の為に諸人(しょにん)と懇意(こんい)する所なり。我が為にすれば追従(ついしょう)なり。一方(いっぽう)は我等(われら)荷(にな)ひ申す心入(こころいれ)からなり。成程(なるほど)なるものなり。
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荀子・大略篇人の臣下たる者は、諫むること有るも訕ること無く、亡ること有るも疾むこと無く、怨むこと有るも怒ること無し。
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葉隠・聞書第一或人(あるひと)覚悟の体(てい)覚書に、主君の身辺(しんぺん)勤むる者は別けて身持(みもち)覚悟慎むべきことなり。御側(おそば)の者の様子を見て、主人のたけを人が積(つも)るものなり。今は御機嫌悪し、序(つい)でになどと思うて居る内に、不図(ふと)御誤(おんあやまり)もあるべきことなり。又諫言(かんげん)は時を移さず申し上ぐべきことなり。仰せ出(いで)済みて後も、其の者に理を附け、少しづつもよき様に云いなせば、帰参(きさん)も早きものなり。又仕合せ(しあわせ)よき人には、無音(ぶいん)しても苦しからず、侍の義理なり。又科人(とがにん)をわろく云うは不義理の事なり。落ちぶれたる者には随分不憫(ふびん)を加え、何とぞ立ち直す様に致すべきこと、侍の義理なりと、これあり候。