淮南子 / 兵略訓
湯之地方七十裏而王者,修德也;智伯有千里之地而亡者,窮武也。故千乘之國,行文德者王;萬乘之國,好用兵者亡。故全兵先勝而後戰,敗兵先戰而後求勝。德均則眾者勝寡,力敵則智者勝愚,智侔則有數者禽無數。凡用兵者,必先自廟戰。主孰賢?將孰能?民孰附?國孰治?蓄積孰多?士卒孰精?甲兵孰利?器備孰便?故運籌於廟堂之上,而決勝乎千里之外矣。
新字:湯之地方七十裏而王者,修徳也;智伯有千里之地而亡者,窮武也。故千乗之国,行文徳者王;万乗之国,好用兵者亡。故全兵先勝而後戦,敗兵先戦而後求勝。徳均則衆者勝寡,力敵則智者勝愚,智侔則有数者禽無数。凡用兵者,必先自廟戦。主孰賢?将孰能?民孰附?国孰治?蓄積孰多?士卒孰精?甲兵孰利?器備孰便?故運籌於廟堂之上,而決勝乎千里之外矣。
書き下し
湯の地 方七十里にして王たる者は、德を修むればなり。智伯 千里の地有りて亡ぶる者は、武を窮むればなり。故に千乘の國、文德を行う者は王たり。萬乘の國、兵を用うるを好む者は亡ぶ。故に全兵は先ず勝ちて而る後に戰い、敗兵は先ず戰いて而る後に勝を求む。德 均しければ則ち眾き者 寡なきに勝ち、力 敵すれば則ち智なる者 愚なるに勝ち、智 侔しければ則ち數有る者 數無きを禽にす。凡そ兵を用うる者は、必ず先ず自ら廟戰す。主 孰れか賢なる、將 孰れか能なる、民 孰れか附く、國 孰れか治まる、蓄積 孰れか多き、士卒 孰れか精なる、甲兵 孰れか利なる、器備 孰れか便なる。故に籌を廟堂の上に運らして、勝を千里の外に決するなり。
現代語訳
湯の領地は七十里四方でありながら王となったのは、徳を修めたからである。智伯は千里の地を持ちながら亡んだのは、武を窮めたからである。だから千乗の国でも、文と徳を行う者は王となる。万乗の国でも、兵を用いるのを好む者は亡ぶ。だから全きを保つ兵は先に勝ってから戦い、敗れる兵は先に戦ってから勝ちを求める。徳が等しければ数の多いほうが少ないほうに勝ち、力が拮抗すれば知恵のあるほうが愚かなほうに勝ち、知恵が同じなら手立てを持つほうが持たないほうを捕らえる。兵を用いる者は、必ずまず廟で戦う。主はどちらが賢いか、将はどちらが有能か、民はどちらに付いているか、国はどちらが治まっているか、蓄えはどちらが多いか、兵はどちらが精鋭か、武具はどちらが鋭いか、装備はどちらが使いやすいか。だから籌を廟堂の上で運らせて、勝ちを千里の外で決するのである。
解説
この章句が説くこと
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