淮南子 / 說林訓
蘇秦步,曰何故;趍,曰何趍馳;有為則議,多事固苛。皮將弗睹,毛將何顧!畏首畏尾,身凡有幾!欲觀九州之土,足無千里之行;心無政教之原,而欲為萬民之上;則難。旳旳者獲,提提者射,故大白若辱,大德若不足。未嘗稼穡粟滿倉,未嘗桑蠶絲滿囊,得之不以道,用之必橫。海不受流胔,太山不上小人,旁光不升俎,駠駁不入牲。中夏用箑,快之,至冬而不知去;褰衣涉水,至陵而不知下;未可以應變。
新字:蘇秦歩,曰何故;趍,曰何趍馳;有為則議,多事固苛。皮将弗睹,毛将何顧!畏首畏尾,身凡有幾!欲観九州之土,足無千里之行;心無政教之原,而欲為万民之上;則難。旳旳者獲,提提者射,故大白若辱,大徳若不足。未嘗稼穡粟満倉,未嘗桑蠶糸満嚢,得之不以道,用之必横。海不受流胔,太山不上小人,旁光不升俎,駠駁不入牲。中夏用箑,快之,至冬而不知去;褰衣渉水,至陵而不知下;未可以応変。
書き下し
蘇秦 步めば、曰く「何の故ぞ」と。趍れば、曰く「何ぞ趍り馳するか」と。爲す有れば則ち議せられ、事 多ければ固より苛なり。皮 將に睹ざらんとす、毛 將た何をか顧みん。首を畏れ尾を畏れば、身 凡そ幾ばく有らん。九州の土を觀んと欲するも、足に千里の行無く、心に政教の原無くして、萬民の上と爲らんと欲せば、則ち難し。旳旳たる者は獲られ、提提たる者は射らる。故に大白は辱の若く、大德は足らざるが若し。未だ嘗て稼穡せずして粟 倉に滿ち、未だ嘗て桑蠶せずして絲 囊に滿つるは、之を得るに道を以てせざれば、之を用うるに必ず橫なり。海は流胔を受けず、太山は小人を上さず、旁光は俎に升さず、駠駁は牲に入れず。中夏に箑を用うるは、之を快しとするも、冬に至りて去るを知らず。衣を褰げて水を涉り、陵に至りて下すを知らず。未だ以て變に應ず可からず。
現代語訳
蘇秦がゆっくり歩けば「なぜそんなに遅いのか」と言われ、急げば「なぜ走り急ぐのか」と言われる。何かをすれば必ず論われ、事が多ければもとより厳しく言われる。皮がなくなろうとしているのに、毛をどうして顧みようか。頭を恐れ尾を恐れていては、身にいくらも残らない。九州の地を見たいと思っても足に千里を行く力がなく、心に政治と教化の根本がないまま万民の上に立とうとするなら、難しい。際立ったものは捕らえられ、目立つものは射られる。だから大いなる白さは汚れて見え、大いなる徳は足りないように見える。耕したことがないのに倉に粟が満ち、蚕を飼ったことがないのに袋に糸が満ちるのは、得るのに道によっていないからで、使い方も必ず横道にそれる。海は流れてきた腐肉を受け入れず、泰山は小人を登らせず、膀胱は俎に載せず、まだら毛の馬は生贄にしない。真夏に扇を使うのは気持ちがよいが、冬になっても手放さないことがある。裾をからげて川を渡り、丘に着いても下ろさないことがある。これでは変化に応じられない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『童子問』卷上問ふ、易知易行・万世不易の理の、実に至極為ることは、既に命を聞くことを得たり。然れども心中猶ほ未だ釈然たること能はず。願はくは易く暁りやすきの語を以て、申ねて諭を垂れよと。曰く、人の外に道無く、道の外に人無し。人を以て人の道を行ふ、何の難知難行か之れ有らん。夫れ人の霊を以てすと雖も、然れども羽ある者の翔り、鱗ある者の潜るが若くなること能はざる者は、其の性異なればなり。堯の服を服し、堯の行ひを行ひ、堯の言を誦するに於ては、則ち復た甚だ難き者無し。其の道同じければなり。故に孟子曰く、夫れ道は一のみと。若し夫れ人倫を外にして道を求むる者は、猶ほ風を捕へ影を捉ふるがごとく、必ず得べからざるなり。故に道を知る者は、必ず之を邇きに求む。其の道を以て高しと為し、遠しと為し、企て及ぶべからずと為す者は、皆道の本然に非ず、自ら惑ふの致す所なり。
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『弁名』理氣人欲包犠氏網罟を為る、蓋し諸を離に取る、神農氏耒耜を為る、蓋し諸を益に取るが如し。易は本と象を取りて器を作るの義有り。故に爾か云ふ。形而上は、器未だ形を成さざる以前、唯だ易の道有るのみを謂ふ。其の形を成すの後に至りて、始めて其の器有り。皆器を制するを主として之を言ふ。下文遂に曰く、「化して之を裁する、之を変と謂ふ。推して之を行ふ、之を通と謂ふ。挙げて之を天下の民に措く、之を事業と謂ふ」と。是れ皆易を賛するの言なり。道器変通事業は、皆易を以て之を言ふのみ。上章に「戸を闔づる之を坤と謂ひ、戸を闢く之を乾と謂ふ。一たび闔ぢ一たび闢く之を変と謂ひ、往来窮まらざる之を通と謂ふ。見はるる乃ち之を象と謂ひ、形はるる乃ち之を器と謂ふ。制して之を用ふる之を法と謂ひ、利用出入して民咸之を用ふる之を神と謂ふ」と曰ふが如きも、是れ又た道器を以て対言せず。其の義以て見るべきのみ。豈に大謬に非ずや。
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『慎思録』巻之四術者の陋なり。陰陽を指して道と為すは、猶ほ天地を指して道と為し、聖人を指して道と為すがごとし。此れ道の在る所を以て言ふ。其の実、天地陰陽は即ち是れ道の存する所にして、還た是れ道中に在る所の物なり。蓋し道を以て主と為して之を言へば、則ち天地万物は皆是れ道中の物なり。天地万物を以て主と為して之を言へば、則ち道は天地万物の中に在りて、之が主為る者なり。陰陽の如きは、則ち又天地万物の比に非ず。同異離合を以て之を言ふべからず。故に易に陰陽を以て道を言ふは、此を以てなり。
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『弁名』理氣人欲仁斎先生曰く、「道は行ふ所を以て言ふ、活字なり。理は存する所を以て言ふ、死字なり。聖人は道を見ること実なり、故に其の理を説くや活なり。老氏は道を見ること虚なり、故に其の理を説くや死なり」と。又た曰く、「道は本と活字、其の生生化化の妙を形容する所以なり。理の字の若きは本と死字、玉に従ひ里に従ふ、玉石の文理を謂ふ。以て事物の条理を形容すべくして、以て天地生生化化の妙を形容するに足らず」と。此等の議論、皆痴人の夢を説くが如し。
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『弁名』道小人の道長ずと曰ひ、戎狄の道と曰ふ者有り。皆其の由る所を以て俗を成し、自ら一道有るに似たり。故に之を言ふ。善人の道と曰ひ、父の道を改むること無しと曰ふ者有り。亦た其の由る所を言ふのみ。必ずしも先王の道ならず。凡そ其の意此を以て道と為して之に由る者なり。是の道や何ぞ以て臧しとするに足らんと曰ふ者有り。詩書礼楽は、皆先王の道なり。故に一言半句と雖も亦た称して道と為すのみ。
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『慎思録』巻之三聖人の道は、本自ら分明なり。故に夫婦の愚も、以て与り知るべし。本自ら簡易なり。故に夫婦の不肖も、以て能く行ふべし。然れども世に之を知り之を行ふ者鮮きは、何ぞや。蓋し教無く習無きに因るなり。

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