淮南子 / 說山訓
人有嫁其子而教之曰:「爾行矣,慎無為善!」曰:「不為善,將為不善邪?」應之曰:「善且由弗為,況不善乎!」此全其天器者。拘囹圄者以日為脩,當死市者以日為短。日之脩短有度也,有所在而短,有所在而脩也,則中不平也。故以不平為平者,其平不平也。嫁女於病消者,夫死則後難復處也。故沮舍之下不可以坐,倚牆之傍不可以立。執獄牢者無病,罪當死者肥澤,刑者多壽,心無累也。良醫者,常治無病之病,故無病。聖人者,常治無患之患,故無患也。
新字:人有嫁其子而教之曰:「爾行矣,慎無為善!」曰:「不為善,将為不善邪?」応之曰:「善且由弗為,況不善乎!」此全其天器者。拘囹圄者以日為脩,当死市者以日為短。日之脩短有度也,有所在而短,有所在而脩也,則中不平也。故以不平為平者,其平不平也。嫁女於病消者,夫死則後難復処也。故沮舎之下不可以坐,倚牆之傍不可以立。執獄牢者無病,罪当死者肥沢,刑者多寿,心無累也。良医者,常治無病之病,故無病。聖人者,常治無患之患,故無患也。
書き下し
人に其の子を嫁がしめて之に教えて曰く、「爾 行け。慎みて善を爲す無かれ」と。曰く、「善を爲さずんば、將に不善を爲さんとするか」と。之に應えて曰く、「善すら且つ由お爲さず。況んや不善をや」と。此れ其の天器を全うする者なり。囹圄に拘わる者は日を以て脩しと爲し、死市に當たる者は日を以て短しと爲す。日の脩短に度有り。在る所有りて短く、在る所有りて脩し。則ち中 平らかならざればなり。故に不平を以て平と爲す者は、其の平 平ならざるなり。女を病消なる者に嫁がしむれば、夫 死すれば則ち後 復た處り難きなり。故に沮舍の下は以て坐す可からず、倚牆の傍は以て立つ可からず。獄牢を執る者に病無く、罪 死に當たる者は肥澤にして、刑せらるる者は壽多し。心に累無ければなり。良醫なる者は、常に無病の病を治む。故に病無し。聖人なる者は、常に無患の患を治む。故に患無きなり。
現代語訳
娘を嫁がせるときに、こう教えた者がいた。「行きなさい。くれぐれも善いことをするな」。娘が言った、「善いことをしないなら、善くないことをせよということですか」。答えて言った、「善いことでさえするなと言うのだ。まして善くないことなど言うまでもない」。これはその天与の器を全うさせる者である。牢に囚われている者は一日を長いと感じ、市で処刑される者は一日を短いと感じる。一日の長さには決まりがある。それでも場合によって短く、場合によって長い。心の中が平らかでないからである。だから平らかでないものを平らかとする者は、その平らかさが平らかでない。娘を病み衰えた者に嫁がせれば、夫が死んだあと身の置き所がなくなる。だから崩れかけた家の下には座れず、傾いた垣のそばには立てない。牢を預かる者に病がなく、死罪に当たる者が肥えて艶があり、刑を受けた者に長命が多いのは、心に煩いがないからである。良医は、いつも病でない病を治す。だから病がない。聖人は、いつも患いでない患いを治す。だから患いがない。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『翁問答』上卷之末主君の臣下をさしつかふはたとへば磁石のはりをすふが如し火はかはけるにつき、水はうるおへるにながるゝことわりなれば、磁石のくろがねならではすはざる如く、主君の心とおなじき人ならではつかひ給はぬものなり、心の暗き主君は、何程よきさぶらいをあつめおきてもそれをばもちひず、只君の心にひとしく暗きくせものばかりをさしつかひ給ふものなり、しかるゆへによきさぶらいその家中にありてもなきに同じ、主君の心あきらかなれば、その心によく叶ひたるよき士ならではさしつかひ給はぬゆへにくせものも欲にふけり悪をはぢて、いつとなくよくなるものなればあしきくせもの其家中にありても、なきに等し、臣下のよきもあしきも国のみだるゝもおさまるも、畢竟主君の心ひとつにあり、まことにこゝろざしあるべき事にて候。
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『驢鞍橋』卷中同録に。古人云く。心は万境に随つて転ず。転ずる処実に能く幽なり。流れに随つて性を認得すれば、喜も無く亦憂も無し。一僧云ふ、随流認得性と云ふは、人我を打つとも、腹たつ道理なし。欲心起るも、他の物を取るへき道理なしと、急度其性を認得する義なりや。師云はく、其義に非す。随流認得性と云ふは、ほしければとり、はれははつたまでよ、如是随流働き、万境に転したか、何ん共なき境界也。是れ凡夫心の沙汰に非す、熟した心の沙汰也。今様の誵訛さへ知りめされすと也。
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『弁名』心志意孟子曰く、「其の心を尽くす者は其の性を知るなり」と。是れ其の心力を尽くして以て之を思ふを謂ふのみ。正に梁恵王の所謂「寡人の国に於けるや、心を尽くすのみ」と同意なり。但だ人思はざるのみ、之を思へば則ち能く性の善を知り、性の善を知れば則ち天道の善に与するを知ると言ふ。孟子の本意、是くの若きに過ぎず。宋儒先王の教法を識らず、故に論語・孟子の字面に就きて、以て学問の方を求め、遂に心を尽くすとは心の量を尽くすと謂ふ。妄なるかな。豈に所謂心の量なる者有らんや。仁斎先生曰く、「四端の心を拡充して其の極に至るを謂ふなり」と。果たして其の言の是ならんか、則ち当に其の性を知る者は其の心を尽くすと曰ふべし。其の言の倒置、豈に強ふるに非ずや。亦た聖人為らんと欲するが故のみ。
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言志四録・言志録 第百九十八条 吾が心は即ち天なり此の心霊昭不昧、衆理具はり、万事出づ。果たして何に従りて之を得たるか。吾が生の前、此の心何処にか放在せし。吾が歿の後、此の心何処にか帰宿せん。果たして生歿有りや、無きや。着想此に到れば、凛凛として自ら惕る。吾が心は即ち天なり。
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言志四録・言志録 第九十七条 心の来処は太虚目を挙ぐれば百物、皆来処有り。軀殻の父母より出づるも、亦来処なり。心に至りては則ち来処何くに在る。余曰く、軀殻は是れ地気の精英、父母に由りて之を聚む。心は則ち天なり。軀殻成りて天寓し、天寓して知覚生じ、天離れて知覚泯ぶ。心の来処は、乃ち太虚是れのみ。
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『洗心洞箚記』卷下・第百一條小程子曰く、一人の心は、即ち天地の心なり。一物の理は、即ち万物の理なり。一日の運は、即ち一歳の運なり、と。吾姚江致良知の教を奉ずと雖も、二程子の説を以て徴と為すなり。而して伊川先生の此の語に於て、賜はる所甚だ少なからず。人如し能く心性を了すれば、則ち理と運も亦た心のみ、別物に非ざるなり。先生分別して之を説くは、童蒙の為のみ。

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