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淮南子 / 脩務訓

或曰:「無為者,寂然無聲,漠然不動,引之不來,推之不往。如此者,乃得道之像。」吾以為不然。嘗試問之矣:「若夫神農、堯、舜、禹、湯,可謂聖人乎?」有論者必不能廢。以五聖觀之,則莫得無為,明矣。古者,民茹草飲水,采樹木之實,食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害,於是神農乃始教民播種五穀,相土地宜,燥濕肥墝高下,嘗百草之滋味,水泉之甘苦,令民知所辟就。當此之時,一日而遇七十毒。

新字:或曰:「無為者,寂然無声,漠然不動,引之不来,推之不往。如此者,乃得道之像。」吾以為不然。嘗試問之矣:「若夫神農、堯、舜、禹、湯,可謂聖人乎?」有論者必不能廃。以五聖観之,則莫得無為,明矣。古者,民茹草飲水,采樹木之実,食蠃蠬之肉。時多疾病毒傷之害,於是神農乃始教民播種五穀,相土地宜,燥湿肥墝高下,嘗百草之滋味,水泉之甘苦,令民知所辟就。当此之時,一日而遇七十毒。

書き下し

或るひと曰く「無爲なる者は、寂然として聲無く、漠然として動かず、之を引くも來たらず、之を推すも往かず。此くの如き者は、乃ち道を得るの像なり」と。吾 以爲えらく然らずと。嘗試みに之を問わん。「夫の神農・堯・舜・禹・湯の若きは、聖人と謂う可きか」と。論ずる者有らば必ず廢する能わず。五聖を以て之を觀れば、則ち無爲を得るもの莫きこと、明らかなり。古者、民は草を茹らい水を飲み、樹木の實を采り、蠃蠬の肉を食らう。時に疾病毒傷の害多し。是に於いて神農 乃ち始めて民に五穀を播種し、土地の宜しき、燥濕肥墝高下を相るを教え、百草の滋味、水泉の甘苦を嘗めて、民をして辟就する所を知らしむ。此の時に當たり、一日にして七十毒に遇う。

現代語訳

ある人が言う。「無為とは、ひっそりとして声もなく、漠然として動かず、引いても来ず、押しても行かない。こういうものこそ道を得た姿だ」。私はそうは思わない。試しに問うてみよう。「あの神農・堯・舜・禹・湯は、聖人と言えるか」。論ずる者があれば、必ず否とは言えまい。この五人の聖人によって見れば、無為でいた者など一人もいないことは明らかである。昔、民は草を食い水を飲み、木の実を採り、貝の肉を食っていた。当時は病や毒傷の害が多かった。そこで神農ははじめて民に五穀の蒔き方を教え、土地の適否、乾湿・肥痩・高低を見分けることを教え、百草の味わい、泉の甘い苦いを自ら嘗めて、民が避けるものと取るものを知るようにした。このとき、一日に七十もの毒に当たった。

解説

脩務訓の口火です。「無為」を、何もせずじっとしていることだと解する者への反論から始まります。挙げる証拠は五人の聖人の実績だけ。神農は百草を自分の舌で試して、一日に七十回中毒しました。動かないことが道なら、この人たちは何だったのか、と。淮南子は道家の書と括られますが、この篇の立場ははっきりしています。

この章句が説くこと

無為なる者は寂然として声無く漠然として動かず之を引くも来たらず之を推すも往かず吾以為えらく然らずと五聖を以て之を観れば則ち無為を得るもの莫きこと明らかなり神農乃ち始めて民に五穀を播種し土地の宜しきを相るを教う百草の滋味を嘗めて此の時に当たり一日にして七十毒に遇う無為

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