淮南子 / 要略
《修務》者,所以為人之於道未淹,味論未深,見其文辭,反之以清靜為常,恬淡為本,則懈墮分學,縱欲適情,欲以偷自佚,而塞于大道也。今夫狂者無憂,聖人亦無憂。聖人無憂,和以德也;狂者無憂,不知禍福也。故通而無為也,與塞而無為也同;其無為則同,其所以無為則異。故為之浮稱流說其所以能聽,所以使學者孳孳以自幾也。
新字:《修務》者,所以為人之於道未淹,味論未深,見其文辞,反之以清静為常,恬淡為本,則懈堕分学,縦欲適情,欲以偷自佚,而塞于大道也。今夫狂者無憂,聖人亦無憂。聖人無憂,和以徳也;狂者無憂,不知禍福也。故通而無為也,与塞而無為也同;其無為則同,其所以無為則異。故為之浮称流説其所以能聴,所以使学者孳孳以自幾也。
書き下し
修務なる者は、人の道に於けるや未だ淹からず、論を味わうこと未だ深からず、其の文辭を見て、之に反して清靜を以て常と爲し、恬淡を以て本と爲さば、則ち懈墮して學を分かち、欲を縱にし情に適い、偷かに以て自ら佚せんと欲して、大道に塞がるが爲なり。今 夫れ狂者に憂い無く、聖人も亦た憂い無し。聖人に憂い無きは、和するに德を以てすればなり。狂者に憂い無きは、禍福を知らざればなり。故に通じて無爲なるは、塞がりて無爲なると同じ。其の無爲は則ち同じくして、其の無爲たる所以は則ち異なる。故に之が爲に浮稱流說 其の能く聽く所以を爲す。學ぶ者をして孳孳として以て自ら幾からしむる所以なり。
現代語訳
修務篇があるのは、人が道についてまだ深く浸っておらず、議論を味わうこともまだ浅いまま、その文言だけを見て、それを取り違え、静けさを常とし淡白を根本とするのだと思い込み、怠けて学びを離れ、欲のままに情に流れ、こっそり楽をしようとして、大きな道を塞いでしまうからである。狂人には憂いがなく、聖人にも憂いがない。聖人に憂いがないのは、徳によって調和しているからである。狂人に憂いがないのは、禍福を知らないからである。だから、通じていて無為であることと、塞がっていて無為であることは同じに見える。無為である点は同じでも、無為である理由はまるで違う。だから、聞き入れられるように言葉を尽くして説いた。学ぶ者が努め励んで、自ら道に近づけるようにするためである。
解説
この章句が説くこと
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