師導古典を学びたいすべての人に

淮南子 / 說山訓

聖人終身言治,所用者非其言也,用所以言也。歌者有詩,然使人善之者,非其詩也。鸚鵡能言,而不可使長。是何則?得其所言,而不得其所以言。故循跡者,非能生跡者也。神蛇能斷而復續,而不能使人勿斷也。神龜能見夢元王,而不能自出漁者之籠。四方皆道之門戶牖嚮也,在所從闚之。故釣可以教騎,騎可以教御,御可以教刺舟。越人學遠射,參天而發,適在五步之內,不易儀也。世已變矣,而守其故,譬猶越人之射也。月望,日奪其光,陰不可以乘陽也。日出星不見,不能與之爭光也。故末不可以強於本,指不可以大於臂。下輕上重,其覆必易。一淵不兩鮫。

新字:聖人終身言治,所用者非其言也,用所以言也。歌者有詩,然使人善之者,非其詩也。鸚鵡能言,而不可使長。是何則?得其所言,而不得其所以言。故循跡者,非能生跡者也。神蛇能断而復続,而不能使人勿断也。神亀能見夢元王,而不能自出漁者之籠。四方皆道之門戸牖嚮也,在所従闚之。故釣可以教騎,騎可以教御,御可以教刺舟。越人学遠射,参天而発,適在五歩之内,不易儀也。世已変矣,而守其故,譬猶越人之射也。月望,日奪其光,陰不可以乗陽也。日出星不見,不能与之争光也。故末不可以強於本,指不可以大於臂。下軽上重,其覆必易。一淵不両鮫。

書き下し

聖人 終身 治を言うも、用うる所の者は其の言に非ず。言う所以を用うるなり。歌う者に詩有り。然れども人をして之を善しとせしむる者は、其の詩に非ざるなり。鸚鵡 能く言うも、長ならしむ可からず。是れ何ぞや。其の言う所を得て、其の言う所以を得ざればなり。故に跡を循う者は、能く跡を生ずる者に非ざるなり。神蛇は能く斷たれて復た續ぐも、而も人をして斷たしむる勿からしむる能わず。神龜は能く夢を元王に見わすも、而も自ら漁者の籠を出づる能わず。四方は皆な道の門戶牖嚮なり。從りて之を闚う所に在り。故に釣は以て騎を教う可く、騎は以て御を教う可く、御は以て舟を刺すを教う可し。越人 遠射を學び、天に參して發するも、適々五步の內に在り。儀を易えざればなり。世 已に變ずるに、其の故を守るは、譬えば猶お越人の射のごときなり。月 望なれば、日 其の光を奪う。陰は以て陽に乘ず可からざればなり。日 出づれば星 見えず。之と光を爭う能わざればなり。故に末は以て本より強かる可からず、指は以て臂より大なる可からず。下 輕く上 重ければ、其の覆ること必ず易し。一淵に兩鮫あらず。

現代語訳

聖人は生涯治めることを語るが、用いているのはその言葉ではない。言葉の出どころのほうを用いている。歌う者には詩がある。だが人にそれをよいと思わせるのは、詩そのものではない。鸚鵡は言葉を話せるが、長にはできない。なぜか。言われた言葉は得ても、その出どころを得ていないからである。だから跡をたどる者は、跡を生み出せる者ではない。神蛇は切られてもまたつながるが、人に切らせないようにはできない。神亀は元王の夢に現れられたが、自分では漁師の籠から出られなかった。四方はみな道の戸口であり窓である。どこから覗くかによる。だから釣りで乗馬を教えられ、乗馬で御を教えられ、御で舟を操ることを教えられる。越の人が遠射を習い、天を仰いで射たが、的はちょうど五歩の内にあった。構えを変えなかったからである。世がすでに変わっているのに古いやり方を守るのは、この越人の射のようなものだ。月が満ちれば、日がその光を奪う。陰は陽に乗じられないからである。日が出れば星が見えない。光を争えないからである。だから末端は根本より強くあれず、指は腕より大きくあれない。下が軽く上が重ければ、必ず倒れやすい。一つの淵に二匹の鮫はいない。

解説

鸚鵡は言葉を覚えても長になれない。「其の言う所を得て、其の言う所以を得ざればなり」。言われた中身は得ても、それが出てきた場所は得ていない、と。越人の射の話が痛烈です。遠射の構えのまま、五歩先の的を天に向かって射る。「世 已に變ずるに、其の故を守る」ことの絵として、これ以上ないほど分かりやすい。

この章句が説くこと

聖人終身治を言うも用うる所の者は其の言に非ず言う所以を用うるなり鸚鵡能く言うも長ならしむ可からず其の言う所を得て其の言う所以を得ざればなり跡を循う者は能く跡を生ずる者に非ざるなり越人遠射を学び天に参して発するも適々五歩の内に在り世已に変ずるに其の故を守るは譬えば猶お越人の射のごとし時代遅れ

関連する章句

この一句を、あなたの毎日に。

古典の教えを、今の状況に当てはめて考えてみる——師導があなたの学びと選択を支えます。

師導で古典を学ぶ
いま登録すると、7日間すべての機能を無料でお試しいただけます。 無料ではじめる