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淮南子 / 齊俗訓

故瑟無絃,雖師文不能以成曲;徒絃,則不能悲。故絃,悲之具也,而非所以為悲也。若夫工匠之為連鐖、運開、陰閉、眩錯,入於冥冥之眇,神調之極,游乎心手眾虛之閒,而莫與物為際者,父不能以教子。瞽師之放意相物,寫神愈舞,而形乎絃者,兄不能以喻弟。今夫為平者準也,為直者繩也。若夫不在於繩準之中,可以平直者,此不共之術也。故叩宮而宮應,彈角而角動,此同音之相應也。其於五音無所比,而二十五絃皆應,此不傳之道也。故蕭條者,形之君;而寂寞者,音之主也。

新字:故瑟無絃,雖師文不能以成曲;徒絃,則不能悲。故絃,悲之具也,而非所以為悲也。若夫工匠之為連鐖、運開、陰閉、眩錯,入於冥冥之眇,神調之極,游乎心手眾虚之閒,而莫与物為際者,父不能以教子。瞽師之放意相物,写神愈舞,而形乎絃者,兄不能以喻弟。今夫為平者準也,為直者縄也。若夫不在於縄準之中,可以平直者,此不共之術也。故叩宮而宮応,弾角而角動,此同音之相応也。其於五音無所比,而二十五絃皆応,此不伝之道也。故蕭条者,形之君;而寂寞者,音之主也。

書き下し

故に瑟に絃無ければ、師文と雖も以て曲を成す能わず。徒だ絃のみなれば、則ち悲しむ能わず。故に絃は、悲しみの具なり、而して悲しみを為す所以に非ざるなり。夫れ工匠の連鐖・運開・陰閉・眩錯を為し、冥冥の眇に入り、神調の極、心手眾虛の閒に游びて、物と際を為す莫き者の若きは、父も以て子に教うる能わず。瞽師の意を放ちて物を相し、神を寫して舞に愈り、而して絃に形るる者は、兄も以て弟に喻す能わず。今夫れ平を為す者は準なり、直を為す者は繩なり。夫れ繩準の中に在らずして、以て平直たる可き者の若きは、此れ共にせざるの術なり。故に宮を叩けば宮 應じ、角を彈けば角 動く。此れ同音の相い應ずるなり。其の五音に於いて比する所無くして、二十五絃 皆な應ずるは、此れ傳えざるの道なり。故に蕭條なる者は、形の君なり。而して寂寞なる者は、音の主なり。

現代語訳

だから瑟に弦がなければ、名手の師文でも曲にできない。弦だけあっても、悲しませることはできない。だから弦は悲しみの道具であって、悲しみを生むものそのものではない。職人が連なる仕掛けや開閉のからくりを作り、奥深い微かなところに入り、神妙な調子の極みで、心と手と多くの隙間のあいだに遊んで、物と境目を作らないようなことは、父でも子に教えられない。盲目の楽師が思いを放って物を見立て、心を写して舞を超え、それが弦にかたちを取るようなことは、兄でも弟に伝えられない。平らかさを測るのは水盛りであり、まっすぐを測るのは墨縄である。だが墨縄や水盛りの中にないのに平らでまっすぐでありうるようなことは、人と共有できない術である。だから宮の弦を叩けば宮が応じ、角を弾けば角が動く。これは同じ音が応じ合うのである。五音のどれにも当てはまらないのに二十五弦がみな応じるのは、伝えられない道である。だから、ひっそりとしたものがかたちの主であり、静まりかえったものが音の主である。

解説

「絃は、悲しみの具なり、而して悲しみを為す所以に非ざるなり」。弦がなければ曲にならないが、弦だけあっても悲しみは生まれない。道具と、それを鳴らすものを分ける話が続きます。職人の勘所は父から子へ伝えられず、楽師の見立ては兄から弟へ伝えられない。そして「蕭條なる者は、形の君なり。而して寂寞なる者は、音の主なり」。音を成り立たせているのは、鳴っていないほうだ、と。

この章句が説くこと

瑟に絃無ければ師文と雖も以て曲を成す能わず絃は悲しみの具なり而して悲しみを為す所以に非ず工匠の神調の極は父も以て子に教うる能わず二十五絃皆な応ずるは此れ伝えざるの道なり蕭条なる者は形の君なり寂寞なる者は音の主なり道具

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