淮南子 / 要略
今《易》之《乾》、《坤》,足以窮道通義也,八卦可以識吉凶、知禍福矣,然而伏羲為之六十四變,周室增以六爻,所以原測淑清之道,而扌麏逐萬物之祖也。夫五音之數不過宮商角徵羽,然而五弦之琴不可鼓也。必有細大駕和,而後可以成曲。今畫龍首,觀者不知其何獸也,具其形,則不疑矣。
新字:今《易》之《乾》、《坤》,足以窮道通義也,八卦可以識吉凶、知禍福矣,然而伏羲為之六十四変,周室增以六爻,所以原測淑清之道,而扌麏逐万物之祖也。夫五音之数不過宮商角徴羽,然而五弦之琴不可鼓也。必有細大駕和,而後可以成曲。今画竜首,観者不知其何獣也,具其形,則不疑矣。
書き下し
今 易の乾・坤は、以て道を窮め義に通ずるに足るなり。八卦は以て吉凶を識り禍福を知る可し。然れども伏羲 之が六十四變を爲し、周室 增すに六爻を以てするは、淑清の道を原測して、萬物の祖を扌麏逐する所以なり。夫れ五音の數は宮商角徵羽に過ぎず。然れども五弦の琴は鼓す可からざるなり。必ず細大 駕和有りて、而る後に以て曲を成す可し。今 龍首を畫けば、觀る者 其の何の獸なるかを知らず。其の形を具うれば、則ち疑わず。
現代語訳
『易』の乾と坤の二卦だけで、道を究め義に通じるには足りる。八卦があれば吉凶を知り禍福を知ることができる。それでも伏羲が六十四に変じさせ、周王室が六爻を加えたのは、清らかな道をもとから測り、万物の始まりまで追っていくためである。五音の数は宮・商・角・徴・羽の五つに過ぎない。それでも五本の弦だけの琴は弾けたものではない。細い弦と太い弦が組み合わさってはじめて曲になる。龍の頭だけを描けば、見る者は何の獣か分からない。全体の形を備えれば、疑わない。
解説
二卦で足りるはずのものが六十四になり、五音しかないはずのものに何本もの弦が要る。原理の数と、実際に使えるようにするための量は別物だ、という説明です。「龍首を畫けば、觀る者 其の何の獸なるかを知らず」——頭だけでは伝わらない。全体を描いてはじめて疑いが消えます。原理の数と、使えるようにするための量は別物だという説明です。頭だけを描いても、何の獣か伝わりません。
この章句が説くこと
易の乾・坤は以て道を窮め義に通ずるに足るなり八卦は以て吉凶を識り禍福を知る可し然れども伏羲之が六十四変を為し周室增すに六爻を以てす五音の数は宮商角徴羽に過ぎず然れども五弦の琴は鼓す可からざるなり必ず細大駕和有りて而る後に以て曲を成す可し今竜首を画けば観る者其の何の獣なるかを知らず其の形を具うれば則ち疑わず原理
関連する章句
-
易経・繋辞上乾の策は、二百一十有六。坤の策は、百四十有四。凡そ三百有六十、期(き)の日に当たる。二篇の策は、万有一千五百二十、万物の数に当たる。是の故に、四たび営みて易を成し、十有八変して卦を成す。八卦にして小成し、引きて之を伸べ、類に触れて之を長ずれば、天下の能事畢(おわ)る。道を顕わし徳行を神にす。是の故に与に酬酢(しゅうさく)すべく、与に神を祐(たす)くべし。子曰く、「変化の道を知る者は、其れ神の為す所を知るか」と。
-
『弁名』極蓋し伏羲仰ぎて観、俯して察し、以て夫の適くとして陰陽剛柔に非ざるは無きを見る。河図の数は五十有五、夫の適くとして奇偶に非ざるは無きを見る。六十四卦、三百八十四爻、豈に它ならんや。以て夫の陰陽剛柔の中に、又剛柔陰陽有りて、窮尽有ること無きを見る、故に之を画するのみ。故に唯だ陰陽剛柔は、易の由りて出づる所なり。易を読む者も、亦た必ず此を以て準拠と為して、以て其の義を得べきなり。是に由りて一画を画する者は二、是れ両儀なり。又二画を画する者は四、是れ四象なり。又三画を画する者は八、是れ八卦なり。老子も亦た易を学ぶ者なり、故に多く謙損卑退の道を説く。其の所謂「一は二を生じ、二は三を生ず」とは、亦た是の義なり。其の書を解する者乃ち曰く、「道、天地を生ず、是れ一は二を生ずるなり。天地人を生じて三才立つ、是れ二は三を生ずるなり」と。夫れ道天地を生ずとは、一は二を生ずと言ふを得ん。天地人を生ずとは、豈に二は三を生ずと言ふを得んや。亦た知らずして妄りに説くのみ。
-
五行大義・第三明数・第一起大衍論易動静数此れ有れば、則ち静爻の数なり。夏殷は質を尚(たっと)ぶ、以て静爻を用いて之を占う。余りに四九有り、故に九と名づくるなり。四六有り、故に六と名づくるなり。此れ則ち動爻の数なり。周は質文を備う、故に兼ねて動爻を用う。凡そ大衍は天地の数を極む、五十有五なり。京房(けいぼう)は十日・十二辰・二十八宿を以て、合わせて五十に応ず。其の一を用いざる者は、天の生気、将に虚を以て実を求めんと欲す、故に四十九を用う。馬融は易の大極を以て、北辰と為すなり。両儀を生じ、両儀は日月を生じ、日月は四時を生じ、四時は五行を生じ、五行は十二月を生じ、十二月は二十四気を生ず。北辰は位に居りて動かず、其の余の四十九、転運して用うるなり。鄭玄曰く、「貞悔六爻、本より五十有り、用うる所の者を定むること、四十有九」と。天地の数は、本五十五。天五と地十と通じ、天一と地六と通ず。之を数うれば気則ち并(あわ)せる有り、并すれば則ち宜しく減ずべし。大衍は五を減ず、故に五十有り。其の用は一を減ず、故に四十有九。并せざる者は、減ずべからざるなり。今其の数を総べて五十とするは、天一より地十に至るまで、凡そ五十五なればなり。此れ生成の数を合わす。若し止だ生数を言わば、唯だ十有五、一より五に至るなり。易の象る所、爻之を尽くす。邃(ふか)き有り、故に天地より以下、日月等の数、皆蓍卦の摂する所と為り、循環変転して、万世窮まり無し。而して五十有五の、五は本并数なり。并数とは、天の地と共に、各おの一体有り、体各おの一の正応敵対有り。今五に盈(み)つるは、則ち是れ気の并数なり。并は再び用いず、是れ其の配義なり。配は則ち虚と為り、実に当たらず。実に当たらず、故に事に主る所無し。所以に揲蓍(ちょうし)に用いず。又其の一を虚しくする者は、一を掛けて無に象る。無は象るべき無し。故に有の用極まれば、則ち無の功見(あら)わる。故に曰く、「大業を尋ねて吉凶を得、吉凶を尋ねて八卦を得、八卦を尋ねて以て四時を得、四時を尋ねて以て両儀に至り、両儀を尋ねて以て太極に至る。太極とは、大いに殺(そ)ぎて極まる、無の致を窮むるなり」と。有を遣りて以て邃きを極め、多きを減じて以て少なきに就く、此の謂いなり。故に曰く、「太極は復た象る所無し」と。其の空寂にして、言象の詮する所に非ざるを明らかにするなり。
-
易経・繋辞上是の故に、易に太極有り。是れ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。是の故に、法象は天地より大なるは莫(な)く、変通は四時より大なるは莫く、象を縣(か)けて明らかを著(あら)わすは日月より大なるは莫く、崇高は富貴より大なるは莫し。物を備え用を致し、器を立て成して以て天下の利と為すは、聖人より大なるは莫し。賾(さく)を探り隠を索(もと)め、深きを鉤(と)り遠きを致し、以て天下の吉凶を定め、天下の亹亹(びび)たる者を成すは、蓍亀(しき)より大なるは莫し。
-
『童子問』卷下易は以て陰陽を道ふ。昔聖人卦爻を画して、以て陰陽消長の変を尽くす。老ゆれば則ち変じ、満つれば必ず損ず。故に盈満を避けて退損に処る者は、易の教なり。孔子曰く、我に数年を加へ、五十にして以て易を学ばば、以て大過無かるべしと。是れなり。六十四卦、三百八十四爻、其の義多しと雖も、然れども夫子の大過無かるべしの一言、以て之を蔽ふに足れり。論語に曰く、礼は其の奢らんよりは寧ろ倹せよと。又曰く、奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固なり。其の不孫ならんよりは寧ろ固なれと。孝経に曰く、節を制し度を謹めば、満ちて溢れず、高くして危からずと。皆此の意に非ざる莫し。夫れ陰陽の消長は、変遷方無く、進退恒無く、一を執りて守り難し。故に論語に曰く、与に共に立つべし、未だ与に権るべからずと。孟子曰く、中を執りて権無きは、猶一を執るがごときなりと。亦皆易の理に非ざる莫し。古者易学、自ら二家有り。彖・象の二篇は儒家の易なり。文言も亦然り。蓋し専ら彖の義を述べて、皆陰陽消長の理を論じて、之を人事に推し、一も卜筮に及ぶ者無し。繋辞・説卦等の篇は、専ら卜筮を主として言ふ。欧陽子以て筮師の書と為す、是れなり。蓋し義の卜筮と相反す。義を言へば則ち卜策を言ふことを須ゐず。卜筮に従へば則ち義を捨てざること能はず。故に論孟の二書、卜筮を言はざる者は、此れを以てなり。程伝は繋辞に従ふと雖も、其の実は彖象の理と相合す。当に之に従ふべし。
-
『呻吟語』内篇・談道・易は個の活き底、學者は死せる底と看做す『易』の道は、渾身都て是れ、滿眼都て是れ、六合に盈ちて都て是れなり。三百八十四爻は、聖人特に三百八十四事を拈起して題目と做せるのみ。千聖をして『易』を作らしめば、人人別に三百八十四說有らん。都て那の陰陽の道理を外れ了らず。後の學者は易を『易』に求め、穿鑿附會して以て通ぜんことを求む。知らず、易は是れ個の活き底なるを、學者は死せる底と看做す。易は是れ個の方體無き底なるを、學者は定象有る底と看做す。故に簡要を論ずれば、乾坤の二卦已に多かり。窮盡を論ずれば、萬卷の書と雖も『易』の道理を說き盡くさず、何ぞ止だ三百八十四爻のみならんや。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る