淮南子 / 主術訓
故民之化也,不從其所言而從所行。故齊莊公好勇,不使鬥爭,而國家多難,其漸至於崔杼之亂。頃襄好色,不使風議,而民多昏亂,其積至昭奇之難。故至精之所動,若春氣之生,秋氣之殺也,雖馳傳鶩置,不若此其亟。故君人者,共猶射者乎!于此豪末,於彼尋常矣。故慎所以感之也。夫榮啟期一彈,而孔子三日樂,感於和;鄒忌一徽,而威王終夕悲,感於憂。動諸琴瑟,形諸音聲,而能使人為之哀樂,縣法設賞而不能移風易俗者,其誠心弗施也。
新字:故民之化也,不従其所言而従所行。故斉荘公好勇,不使鬥争,而国家多難,其漸至於崔杼之乱。頃襄好色,不使風議,而民多昏乱,其積至昭奇之難。故至精之所動,若春気之生,秋気之殺也,雖馳伝鶩置,不若此其亟。故君人者,共猶射者乎!于此豪末,於彼尋常矣。故慎所以感之也。夫栄啟期一弾,而孔子三日楽,感於和;鄒忌一徽,而威王終夕悲,感於憂。動諸琴瑟,形諸音声,而能使人為之哀楽,県法設賞而不能移風易俗者,其誠心弗施也。
書き下し
故に民の化するや、其の言う所に從わずして行う所に從う。故に齊の莊公 勇を好み、鬥爭せしめざるも、國家 難多く、其の漸 崔杼の亂に至る。頃襄 色を好み、風議せしめざるも、民 昏亂多く、其の積 昭奇の難に至る。故に至精の動かす所は、春氣の生じ、秋氣の殺すが若し。傳を馳せ置を鶩すと雖も、此くの其れ亟やかなるに若かず。故に人に君たる者は、共に射る者のごときか。此に於いて豪末なるも、彼に於いては尋常なり。故に之を感ずる所以を慎むなり。夫れ榮啟期 一たび彈じて、孔子 三日樂しむは、和に感ずればなり。鄒忌 一たび徽して、威王 終夕悲しむは、憂いに感ずればなり。諸を琴瑟に動かし、諸を音聲に形して、能く人をして之が為に哀樂せしむ。法を縣け賞を設けて而も風を移し俗を易うる能わざる者は、其の誠心 施されざればなり。
現代語訳
民が感化されるのは、言われたことにではなく、していることによる。だから斉の荘公は勇を好み、争わせないようにしても国家には難が多く、その積み重ねが崔杼の乱に至った。頃襄王は色を好み、噂を言わせないようにしても民には乱れが多く、その積み重ねが昭奇の難に至った。だから至って精なるものが動かす力は、春の気が生じ、秋の気が殺すようなものである。早馬を走らせ宿場を継いでも、この速さには及ばない。だから人の上に立つ者は、弓を射る者のようなものだ。手元では毛先ほどの狂いでも、向こうでは何尺もの外れになる。だから、何によって感じさせるかを慎むのである。榮啓期がひとたび琴を弾いて孔子が三日楽しんだのは、和らぎに感じたからである。鄒忌がひとたび弦を鳴らして威王が一晩じゅう悲しんだのは、憂いに感じたからである。琴と瑟に動かし、音と声にかたどって、人を哀しませ楽しませることができる。法を掲げ賞を設けても風俗を移せないのは、まことの心が及んでいないからである。
解説
この章句が説くこと
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言志四録・南洲手抄信を人に取るは難し。人は口を信ぜずして躬を信ず。躬を信ぜずして心を信ず。是を以て難し。
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