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淮南子 / 繆稱訓

同言而民信,信在言前也;同令而民化,誠在令外也。聖人在上,民遷而化,情以先之也。動于上,不應於下者,情與令殊也。故《易》曰:「亢龍有悔。」三月嬰兒,未知利害也,而慈母之愛諭焉者,情也。故言之用者,昭昭乎小哉!不言之用者,曠曠乎大哉!身君子之言,信也;中君子之意,忠也。忠信形于內,感動應於外,故禹執干戚,舞於兩階之間,而三苗服。鷹翔川,魚鱉沈,飛鳥揚,必遠害也。

新字:同言而民信,信在言前也;同令而民化,誠在令外也。聖人在上,民遷而化,情以先之也。動于上,不応於下者,情与令殊也。故《易》曰:「亢竜有悔。」三月嬰児,未知利害也,而慈母之愛諭焉者,情也。故言之用者,昭昭乎小哉!不言之用者,曠曠乎大哉!身君子之言,信也;中君子之意,忠也。忠信形于内,感動応於外,故禹執干戚,舞於両階之間,而三苗服。鷹翔川,魚鱉沈,飛鳥揚,必遠害也。

書き下し

言を同じくして民 信ずるは、信 言の前に在ればなり。令を同じくして民 化するは、誠 令の外に在ればなり。聖人 上に在れば、民 遷りて化するは、情 以て之に先んずればなり。上に動きて、下に應ぜざる者は、情と令と殊なればなり。故に『易』に曰く、「亢龍 悔有り」と。三月の嬰兒は、未だ利害を知らざるも、慈母の愛 焉に諭るは、情なればなり。故に言の用は、昭昭乎として小なるかな。不言の用は、曠曠乎として大なるかな。君子の言に身とするは、信なり。君子の意に中るは、忠なり。忠信 內に形れて、感動 外に應ず。故に禹 干戚を執りて、兩階の間に舞いて、三苗 服せり。鷹 川に翔れば、魚鱉 沈み、飛鳥 揚がる。必ず害を遠ざくればなり。

現代語訳

同じ言葉なのに民が信じるのは、信が言葉より前にあるからである。同じ令なのに民が変わるのは、誠が令の外にあるからである。聖人が上にいて民が移り変わるのは、情が先に立っているからである。上が動いても下が応じないのは、情と令とが食い違っているからである。だから『易』に言う、「昇りつめた龍には悔いがある」。生後三月の赤子は、まだ利害を知らないのに、慈母の愛が伝わるのは、情だからである。だから言葉の効きめは、明るいけれども小さい。言わないことの効きめは、広々として大きい。君子の言葉を身とするのが信であり、君子の思いに当たるのが忠である。忠と信が内にかたちをとり、その動きが外に応じる。だから禹が盾と斧を執って両階のあいだで舞うと、三苗が服した。鷹が川の上を飛べば、魚やすっぽんは沈み、鳥は飛び立つ。必ず害を遠ざけるからである。

解説

「言を同じくして民 信ずるは、信 言の前に在ればなり」。同じ文言でも、通る人と通らない人がいる。その差は言葉の外側、それが発せられる前にできている、と。だから上が動いても下が応じないときの診断も一行で済みます。「情と令と殊なればなり」。思っていることと出した命令が違う。生後三月の赤子に母の愛が伝わる例が、その証拠として置かれています。

この章句が説くこと

言を同じくして民信ずるは信言の前に在ればなり令を同じくして民化するは誠令の外に在ればなり上に動きて下に応ぜざる者は情と令と殊なればなり三月の嬰児は未だ利害を知らざるも慈母の愛焉に諭る言の用は昭昭乎として小なるかな不言の用は曠曠乎として大なるかな

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