淮南子 / 齊俗訓
天下是非無所定,世各是其所是而非其所非,所謂是與非各異,皆自是而非人。由此觀之,事有合於己者,而未始有是也;有忤於心者,而未始有非也。故求是者,非求道理也,求合於己者也;去非者,非批邪施也,去忤於心者也。忤於我,未必不合於人也;合於我,未必不非於俗也。至是之是無非,至非之非無是,此真是非也。若夫是於此而非於彼,非於此而是於彼者,此之謂一是一非也。此一是非,隅曲也;夫一是非,宇宙也。
新字:天下是非無所定,世各是其所是而非其所非,所謂是与非各異,皆自是而非人。由此観之,事有合於己者,而未始有是也;有忤於心者,而未始有非也。故求是者,非求道理也,求合於己者也;去非者,非批邪施也,去忤於心者也。忤於我,未必不合於人也;合於我,未必不非於俗也。至是之是無非,至非之非無是,此真是非也。若夫是於此而非於彼,非於此而是於彼者,此之謂一是一非也。此一是非,隅曲也;夫一是非,宇宙也。
書き下し
天下の是非 定まる所無し。世 各々其の是とする所を是として其の非とする所を非とす。所謂 是と非と各々異なり、皆な自ら是として人を非とす。此に由りて之を觀れば、事に己に合する者有るも、未だ始めより是なる有らざるなり。心に忤らう者有るも、未だ始めより非なる有らざるなり。故に是を求むる者は、道理を求むるに非ず、己に合するを求むる者なり。非を去る者は、邪施を批つに非ず、心に忤らうを去る者なり。我に忤らうも、未だ必ずしも人に合せざるにあらざるなり。我に合するも、未だ必ずしも俗に非とせられざるにあらざるなり。至是の是に非無く、至非の非に是無し。此れ真の是非なり。若し夫れ此に是にして彼に非、此に非にして彼に是なる者は、此れ之を一是一非と謂う。此の一是非は、隅曲なり。夫の一是非は、宇宙なり。
現代語訳
天下の是非に定まったものはない。世の人はそれぞれ自分が是とするものを是とし、非とするものを非とする。いわゆる是と非はそれぞれ違い、みな自分を是として人を非とする。これによって見れば、自分に合う事があっても、それがはじめから是であるわけではない。心に逆らう事があっても、それがはじめから非であるわけではない。だから是を求める者は、道理を求めているのではなく、自分に合うものを求めているのである。非を去る者は、邪なものを打っているのではなく、心に逆らうものを去っているのである。私に逆らうものが、他の人に合わないとは限らない。私に合うものが、世に非とされないとは限らない。極みの是には非がなく、極みの非には是がない。これが本当の是非である。ここでは是でありあそこでは非、ここでは非でありあそこでは是というのは、一つの是と一つの非という。この一つの是非は片隅のものであり、あの本当の是非は宇宙のものである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『淮南子』氾論訓今夫れ盲者の道を行くや、人 之に左と謂えば則ち左し、右と謂えば則ち右す。君子に遇えば則ち道を易え、小人に遇えば則ち溝壑に陷る。何となれば則ち、目 以て物に接する無ければなり。故に魏は樓翟・吳起を兩用して西河を亡い、湣王は專ら淖齒を用いて東廟に死す。之を御するに術無ければなり。文王は呂望・召公奭を兩用して王たり、楚の莊王は專ら孫叔敖に任じて霸たり。之を御するに術有ればなり。夫れ弦歌鼓舞して以て樂と爲し、盤旋揖讓して以て禮を修め、厚葬久喪して以て死を送るは、孔子の立つる所なり。而して墨子 之を非とす。兼愛尚賢、右鬼非命は、墨子の立つる所なり。而して楊子 之を非とす。性を全うし真を保ち、物を以て形を累わさざるは、楊子の立つる所なり。而して孟子 之を非とす。趨捨 人ごとに異なり、各々曉る心有り。故に是非に處有り。其の處を得れば則ち非無く、其の處を失えば則ち是無し。丹穴・太蒙・反踵・空同・大夏・北戶・奇肱・脩股の民、是非 各々異なり、習俗 相い反するも、君臣上下、夫婦父子、以て相い使う有るなり。此の是は、彼の是に非ざるなり。此の非は、彼の非に非ざるなり。譬えば斤斧椎鑿の各々施す所有るがごとし。
-
『長短経』忠疑淮南子に曰く「親母其の子の為に禿を扢きて、血を出だして耳に至るも、見る者以て子を愛するの至りと為す。継母に在らしめば、則ち過ぐる者以て悷りと為す」と。事の情は一なり、従りて観る所の者異なるのみ。城上より牛を視れば羊の如く、羊を視れば豚の如し。居る所高ければなり。面を盤水に窺えば則ち円く、□に於いてす〔□は音随、訓は虧なり〕。面の形は変ぜず。其の故に円なる所有り、□なる所有る者は、自りて窺う所異なればなり。今、吾身を正して物を待たんと欲すと雖も、庸詎ぞ世の自りて我を窺う所の者を知らんや。是に知る、天下の是非は定まる所無し。世各々其の是とする所を是とし、其の非とする所を非とす。今、吾是を択びて之に居り、非を択びて之を去らんと欲するも、世の是非とする所の者、孰れか是にして孰れか非なるかを知らざるなり。
-
文子・道德老子曰く、天下の是非は定まる所無く、世は各々其の善とする所を是とし、其の悪む所を非とす。夫れ是を求むる者は、道理を求むるに非ず、己に合するなり。邪を去るに非ず、心に迕うを去るなり。今、吾れ是を択びて之に居り、非を択びて之を去らんと欲するも、世の所謂是非を知らず。故に大国を治むるは小鮮を烹るが若しと。撓すこと勿きのみ。夫れ趣合する者は、即ち言中たりて益々親しみ、身疏くして謀当たれば、即ち疑わる。今、吾れ身を正しくして物を待たんと欲するも、世の規に従いて我を規す者を何ぞ知らんや。若し俗と遽かに走れば、猶お雨を逃るるがごとく、之くとして濡れざる無し。虚を欲するに在りては、則ち虚なる能わず。若し夫れ虚を為さずして自ら虚なる者は、此れ欲する所として致さざる無し。故に道に通ずる者は車軸の如し。己に運らさずして、轂と与に千里に致り、無窮の原に転ず。故に聖人は道を体して至りに反り、化せずして化を待ち、動きて無為なり。
-
『淮南子』俶真訓夫れ天の覆う所、地の載する所、六合の包む所、陰陽の呴する所、雨露の濡す所、道德の扶くる所、此れ皆な一父母に生じて一和を閱するなり。是の故に槐榆と橘柚と合して兄弟と為り、有苗と三危と通じて一家と為る。夫れ目は鴻鵠の飛ぶを視、耳は琴瑟の聲を聽き、而して心は雁門の間に在り。一身の中、神の分離剖判すること、六合の内、一舉にして千萬里なり。是の故に其の異なる者よりして之を視れば、肝膽も胡・越なり。其の同じき者よりして之を視れば、萬物一圈なり。百家の異説、各ミ出づる所有り。夫の墨・楊・申・商の治道に於けるが若きは、猶お蓋の一橑無く、輪の一輻無きがごとし。之有れば以て數を備う可く、之無きも未だ用に害有らざるなり。己自ら以て獨り之を擅にすと為すは、之を天地の情に通ぜざるなり。今夫れ治工の器を鑄るや、金鑪中に踊躍し、必ず波溢して播棄せらるる者有り。其の地に中りて凝滯するも、亦た以て物に象る者有り。其の形小しく用うる所有りと雖も、然れども以て周室の九鼎に保んず可からず。又た況んや規形に比する者をや。其の道と相い去ること亦た遠し。
-
『淮南子』齊俗訓乃ち天地の覆載する所、日月の照誋する所に至るまで、各々其の性に便にし、其の居に安んじ、其の宜しきに處り、其の能を為さしむ。故に愚者にも脩むる所有り、智者にも足らざる所有り。柱は以て齒を摘む可からず、筐は以て屋を持す可からず。馬は以て重に服す可からず、牛は以て速きを追う可からず。鉛は以て刀と為す可からず、銅は以て弩と為す可からず。鐵は以て舟と為す可からず、木は以て釜と為す可からず。各々之を其の適する所に用い、之を其の宜しき所に施せば、即ち萬物 一齊にして、由りて相い過ぐる無し。夫れ明鏡は形を照らすに便なるも、其の以て食を函るるに於けるや、簞に如かず。犧牛の粹毛は、廟牲に宜しきも、其の以て雨を致すに於けるや、黑蜧に若かず。此に由りて之を觀れば、物に貴賤無し。
-
『淮南子』齊俗訓今 吾 是を擇びて之に居り、非を擇びて之を去らんと欲するも、世の所謂 是非なる者を知らず、孰れか是にして孰れか非なるかを知らず。老子曰く、「大國を治むるは小鮮を烹るが若し」と。寬裕を為す者は數ば撓すこと勿かれと曰い、刻削を為す者は其の鹹酸を致すのみと曰う。晉の平公 言を出だして當たらず、師曠 琴を舉げて之を撞ち、衽を跌して宮壁す。左右 之を塗らんと欲す。平公曰く、「之を舍け。此を以て寡人の失と為さん」と。孔子 之を聞きて曰く、「平公 其の體を痛まざるに非ざるなり、諫むる者を來たさんと欲すればなり」と。韓子 之を聞きて曰く、「群臣 禮を失して誅せざるは、是れ過ちを縱にするなり。以て有るかな、平公の霸たらざるや」と。故に賓に人を宓子に見る者有り。賓 出でて、宓子曰く、「子の賓 獨り三過有り。我を望みて笑うは、是れ攓なり」と。

人生を、一行の式にしてみた。
志×積×時×憤÷(1+執)+命。古典から導いた式『人生の方程式』と、二十四の悩みに古典が答える『人生の教科書』(PDF)、師導の全機能1か月がセットで700円です。
本の中身を見る