淮南子 / 泰族訓
夫濕之至也,莫見其形而炭已重矣;風之至也,莫見其象而木已動矣。日之行也,不見其移;騏驥倍日而馳,草木為之靡;縣烽未轉,而日在其前。故天之且風,草木未動而鳥已翔矣;其且雨也,陰曀未集而魚已噞矣。以陰陽之氣相動也。
新字:夫湿之至也,莫見其形而炭已重矣;風之至也,莫見其象而木已動矣。日之行也,不見其移;騏驥倍日而馳,草木為之靡;県烽未転,而日在其前。故天之且風,草木未動而鳥已翔矣;其且雨也,陰曀未集而魚已噞矣。以陰陽之気相動也。
書き下し
夫れ濕の至るや、其の形を見ること莫くして炭 已に重し。風の至るや、其の象を見ること莫くして木 已に動く。日の行くや、其の移るを見ず。騏驥 日に倍して馳すれば、草木 之が爲に靡く。縣烽 未だ轉ぜずして、日 其の前に在り。故に天の且に風あらんとするや、草木 未だ動かずして鳥 已に翔る。其の且に雨あらんとするや、陰曀 未だ集まらずして魚 已に噞す。陰陽の氣の相い動かすを以てなり。
現代語訳
湿気が来るとき、その形は見えないのに炭はもう重くなっている。風が来るとき、そのかたちは見えないのに木はもう動いている。日が動くとき、その移りは見えない。駿馬が日に倍して駆ければ、草木はそのために靡く。烽火台の火がまだ回らないうちに、日はもうその前を過ぎている。天が風を起こそうとするとき、草木がまだ動かないうちに鳥はもう飛び立っている。雨を降らせようとするとき、雲がまだ集まらないうちに魚はもう水面で口を開けている。陰陽の気が互いを動かしているからである。
解説
炭が湿気を先に知り、鳥が風を先に知り、魚が雨を先に知る。どれも目に見える兆しが出るより早い。人が「まだ何も起きていない」と言っている時間帯に、動いているものはすでに動いています。前段の「見えないのに育つ」を、感じ取る側から言い直した一節です。
この章句が説くこと
湿の至るや其の形を見ること莫くして炭已に重し風の至るや其の象を見ること莫くして木已に動く日の行くや其の移るを見ず天の且に風あらんとするや草木未だ動かずして鳥已に翔る其の且に雨あらんとするや陰曀未だ集まらずして魚已に噞す兆し
関連する章句
-
『淮南子』天文訓陰陽相い薄り、感じて雷と為り、激して霆と為り、亂れて霧と為る。陽氣勝てば則ち散じて雨露と為り、陰氣勝てば則ち凝りて霜雪と為る。毛羽なる者は、飛行の類なり、故に陽に屬す。介鱗なる者は、蟄伏の類なり、故に陰に屬す。日なる者は、陽の主なり、是の故に春夏には則ち群獸除り、日至りて麋鹿解く。月なる者は、陰の宗なり、是を以て月虛しくして魚腦減り、月死して蠃蛖膲む。火は上に蕁り、水は下に流る。故に鳥は飛びて高く、魚は動きて下る。物類相い動き、本標相い應ず。故に陽燧日を見れば則ち燃えて火と為り、方諸月を見れば則ち津して水と為る。虎嘯きて谷風至り、龍舉がりて景雲屬き、麒麟鬥いて日月食し、鯨魚死して彗星出で、蠶絲を珥して商弦絕え、賁星墜ちて勃海決す。
-
『淮南子』泰族訓天は其の高きを致し、地は其の厚きを致し、月は其の夜を照らし、日は其の晝を照らし、陰陽 化し、列星 朗らかなり。其の道に非ずして物 自ら然り。故に陰陽四時は、萬物を生ずるに非ざるなり。雨露 時に降るは、草木を養うに非ざるなり。神明 接し、陰陽 和して、萬物 生ず。故に高山深林は、虎豹の爲に非ざるなり。大木茂枝は、飛鳥の爲に非ざるなり。流源 千里、淵深 百仞なるは、蛟龍の爲に非ざるなり。其の高崇を致し、其の廣大を成せば、山居木棲、巢枝穴藏、水潛陸行、各々其の寧んずる所を得。
-
『淮南子』泰族訓故に寒暑燥濕は、類を以て相い從う。聲響疾徐は、音を以て應ずるなり。故に易に曰く「鳴鶴 陰に在り、其の子 之に和す」と。高宗 諒暗し、三年 言わず、四海の內 寂然として聲無し。一たび言いて聲然として、大いに天下を動かす。是れ天心を以て呿唫する者なり。故に一たび其の本を動かせば百枝 皆な應ず。春雨の萬物に灌ぐが若きは、渾然として流れ、沛然として施し、地として澍がざる無く、物として生ぜざる無し。
-
『淮南子』泰族訓故に聖人なる者は天心を懷き、聲然として能く天下を動化する者なり。故に精誠 內に感ずれば、形氣 天に動く。則ち景星 見れ、黃龍 下り、祥鳳 至り、醴泉 出で、嘉穀 生じ、河 滿溢せず、海 波を溶かさず。故に詩に云う「百神を懷柔し、河嶠嶽に及ぶ」と。天に逆らい物を暴わば、則ち日月 薄蝕し、五星 行を失い、四時 幹乖し、晝 冥く宵 光り、山 崩れ川 涸れ、冬に雷あり夏に霜あり。詩に曰く「正月に霜 繁く、我が心 憂傷す」と。天の人に與けるは、以て相い通ずること有るなり。
-
『淮南子』泰族訓天は日月を設け、星辰を列ね、陰陽を調え、四時を張り、日は以て之を暴し、夜は以て之を息わしめ、風は以て之を幹かし、雨露は以て之を濡す。其の物を生ずるや、其の養う所を見ること莫くして物 長ず。其の物を殺すや、其の喪う所を見ること莫くして物 亡ぶ。此れを之れ神明と謂う。聖人 之に象る。故に其の福を起こすや、其の由る所を見ずして福 起こる。其の禍を除くや、其の以てする所を見ずして禍 除かる。之を遠ざくれば則ち邇く、之を延けば則ち疏し。之を稽うるも得ず、之を察するも虛しからず。日に計れば算無く、歲に計れば餘り有り。
-
『淮南子』覽冥訓夫れ陽燧は火を日に取り、方諸は露を月に取る。天地の間、巧曆も其の數を舉ぐる能わず、手は徽忽怳として、其の光を覽る能わず。然れども掌握の中を以て、類を太極の上に引きて、水火立ちどころに致す可き者は、陰陽 氣を同じくして相い動けばなり。此れ傅說の辰尾に騎る所以なり。故に至陰は飂々、至陽は赫赫たり。兩者交わり接して和を成して、萬物生ず。眾雄にして雌無くんば、又た何の化か能く造る所ならんや。所謂 言わざるの辯、道わざるの道なり。故に遠きを召す者は無為ならしめ、近きを親しむ者は無事ならしむ。惟だ夜行なる者のみ能く之を有つ。故に走馬を卻けて以て糞し、車軌 遠方の外に接せず、是れを坐馳陸沈と謂う。晝は冥く宵は明るく、冬を以て膠を鑠かし、夏を以て冰を造る。夫れ道なる者は、私に就く無く、私に去る無し。能なる者は餘り有り、拙なる者は足らず。之に順う者は利あり、之に逆らう者は凶なり。譬えば隋侯の珠、和氏の璧のごとし。之を得る者は富み、之を失う者は貧し。得失の度、深微窈冥にして、知論を以てし難く、辯說す可からず。何を以て其の然るを知る。今夫れ地黃は骨に屬くを主り、而して甘草は肉を生ずるの藥を主る。其の骨に屬くを以て、其の肉を生ずるを責め、其の肉を生ずるを以て、其の骨に屬くを論ずるは、是れ猶お王孫綽の偏枯の藥を倍して、以て殊死の人を生かさんと欲するがごとし。亦た論を失うと謂う可し。