甲陽軍鑑 / 兵家
甲陽軍鑑(兵家)の名句を、現代語訳と実践の解説つきで。全617句。
武田信玄(一五二一〜一五七三)の言行と甲州武士の心得を、重臣の高坂弾正昌信(春日虎綱)の口述として書き留めた軍記です。全二十巻五十九品。「人は城、人は石垣、人は堀、情は味方、讎は敵なり」も、風林火山の御旗の由来も、出どころはこの書です。江戸期には甲州流軍学の祖典として読まれ、武士が兵法を学ぶといえばまずこれでした。合戦の記録が量では大半を占めますが、芯にあるのは軍法之巻(品第四十一〜四十三)です。軍法の元は采配、采配の元は法度、法度の元は五つある——人の目利き、手柄の上中下を鏡のように分けること、それに応じた恩と言葉、慈悲、そして怒り。戦の巧拙ではなく人の扱いを土台に置きます。罰の重さが人によって上下すれば「自ら天道にて、その大将こそ法度を聞かぬ者」だと、責めの向きを上へ返すところまで書かれています。勝ち方についての一句がよく知られています。「十を六分・七分の勝ちは、これ十分の勝ちなり。八分・九分の勝ちはこれ危うし。十分の勝ちは必ず怪我ありて、跡の誉れを無にすべし」。そして「十を十ながら勝ちたき思案あらば、我が心中より大敵・強敵の数を作り出し、勝利を失わん悪事を招くと相心得候え」。外にいる敵よりも、勝ち切りたいという自分の思案のほうが危ないという見方です。敵を強敵・大敵・小敵・弱敵・若敵の五つに分ける段も、結びはすべて「必ず侮ることなかれ」に着きます。人を見る目もこの書の読みどころです。品第六は、北条氏康・武田信玄・上杉謙信・織田信長・徳川家康・毛利元就の十二、三歳の一場面を並べます。鉄炮の音に驚いて笑われた氏康、蛤の数を言い当てた信玄、親に譲られる者は苦を知らぬと言って諸国を歩いた謙信、叩き合う前によき者を選んで銭を配った信長、少ないほうが勝つと見切った家康。冒頭には「飾りは女人あるいは商人の法なり、一事を飾れば万事の実みな偽りなり」と、身内を尊く書かない断りが置かれています。品第四十七・四十八の公事の巻は、信玄が実際に裁いた訴訟の記録で、判決だけでなく何を証拠と見たかまで残っています。この書は長く真贋を疑われてきました。江戸中期に湯浅常山らが年紀の誤りを指摘し、明治には田中義成が小幡景憲の仮託とみて偽書と断じます。評価が変わるのは昭和末以降で、酒井憲二による国語学的な研究が、本文の語彙と文法が景憲の時代より古い層を含むことを示し、原型を高坂弾正周辺の口述にさかのぼらせました。いまは、年紀に誤りを含む一方で、甲州武士の言葉と作法を伝える一次に近い資料として読まれています。底本は『甲斐志料集成』第九巻 歴史部三(甲斐志料刊行会・一九三五、NDLデジタルコレクション 1240963)。同書の例言に「本書は甲陽軍鑑諸本中最も原據として信賴し得る万治貳年己亥年仲秋吉辰の刊記ある安田十兵衛開板本によりたり」とある活字本で、句読点は編者が便宜で施したものです。証人は『甲陽軍鑑』(山田弘道校・温故堂・一八九三、NDL 899828)。この和装の証人はOCRの崩れが大きく差分では揃わないため、校訂は一箇所ずつの判断で行いました。見開き二ページのコマの頭と尻に柱が入り、尻の柱はコマの境で割れるため、つないでから三百二十七箇所を機械で落としています。編者の頭註(校異注)が本文に差し込まれる箇所も、本文との境がはっきりするものだけを落としました。品第一の信玄家法五十七ヶ条、品第二の異見九十九ヶ条、品第十七の惣人数の名簿は、二段組・表組みのためOCRの読み順そのものが崩れています。師導では、この書だけ収め方を分けました。底本の全文四十六万千二百二十九字を三百四十三段の全文コーパスに収めたうえで、章句は選んでいます。軍記の大半は合戦の経過・討死の覚書・侍大将の名簿・陣立ての細目で、訳と解説と問いを付ける意味の薄い部分が多いためです。原典への忠実さは全文が担保します。章句は起巻・品第六・品第十一〜十六・品第三十九・品第四十・品第四十一〜四十三・品第四十七・品第四十八から六百十七件、原文十一万七千八百八十六字を収めました。学派は「兵家」に置いています。孫子・呉子・六韜・三略・司馬法・尉繚子・李衛公問対に次ぐ八冊目で、兵家の棚では最初の和書です。