甲陽軍鑑 / 品第四十七
右二十人衆頭笠井平兵衛·三澤四郞兵衞·坂本武兵衞·相州甚五兵衛·甘利左衞門尉衆をめしつれ、右增城源八家を闕所仕り、其上源八にかり坂をこさずるとなづけ、坂のきはにて搦め捕り、諸侍へのために逆機にあげよとある、但し旗本の者なれば、かみのきどにはいかゞとなる故在々に揚げよとて、しづめといふ所に增城源八逆機にあがる、我身の手抦いはんとて、申し合せたる近付を惡しくいひ、或は傍輩を支へ機にあがる、武士の見せしめなりとて、增城源八郞を上下萬民にくまぬ者ぞなかりける如件
新字:右二十人衆頭笠井平兵衛·三沢四郎兵衛·坂本武兵衛·相州甚五兵衛·甘利左衛門尉衆をめしつれ、右增城源八家を闕所仕り、其上源八にかり坂をこさずるとなづけ、坂のきはにて搦め捕り、諸侍へのために逆機にあげよとある、但し旗本の者なれば、かみのきどにはいかゞとなる故在々に揚げよとて、しづめといふ所に增城源八逆機にあがる、我身の手抦いはんとて、申し合せたる近付を悪しくいひ、或は傍輩を支へ機にあがる、武士の見せしめなりとて、增城源八郎を上下万民にくまぬ者ぞなかりける如件
書き下し
右二十人衆頭笠井平兵衛·三沢四郎兵衛·坂本武兵衛·相州甚五兵衛·甘利左衛門尉衆をめしつれ、右增城源八家を闕所仕り、其上源八にかり坂をこさずるとなづけ、坂のきはにて搦め捕り、諸侍へのために逆機にあげよとある、但し旗本の者なれば、かみのきどにはいかゞとなる故在々に揚げよとて、しづめといふ所に增城源八逆機にあがる、我身の手抦いはんとて、申し合せたる近付を悪しくいひ、或は傍輩を支へ機にあがる、武士の見せしめなりとて、增城源八郎を上下万民にくまぬ者ぞなかりける如件
現代語訳
見懲りのために雁坂を越させよと仰せ出だされ、右の二十人衆頭、笠井平兵衛・三沢四郎兵衛・坂本武兵衛・相州甚五兵衛・甘利左衛門尉の衆を召し連れ、右の増城源八の家を闕所いたし、そのうえ源八に雁坂を越させると名付け、坂の際にて搦め捕り、諸侍へのために逆磔に上げよとある。ただし旗本の者であれば、上の木戸にてはいかがとなるゆえに在々に揚げよとて、静めという所に増城源八は逆磔に上がる。我が身の手柄を言わんとて、申し合わせた近づきを悪しく言い、あるいは傍輩を支えて磔に上がる。武士の見せしめであるとて、増城源八郎を上下万民が憎まぬ者ぞなかりける、件のごとし。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『甲陽軍鑑』品第四十七さて翌年未の正月、增城源八·長助·長八が御前のよきをそねみて、柳ノ介をば我等討てとらせたり、手負事も兄には四ケ所、弟は六ケ所、我等はわき人なれど八ケ所手負ひて、柳ノ介を某がしの殺したる故おぼへとらするとて增城源八郎申す口にて、源八が親類共ひろき者なれば、各々方々ありき、長沼長介·長八が手抦、我等親類の增城源八を頼たる故なりと申しひろむる、
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『甲陽軍鑑』品第四十七よき人はあまり申す事もなけれども、只增城源八が様なる者来りて、さき〳〵へ如此と申しならはす、長助·長八兄弟いかにもさは有るまじ、縦ひ左様に增城源八申さるゝとも其右甲州より信濃へ参られ、すでに熊野の牛王に起請を書ての事なれば、其恩は辱なき子細なる故、五度·六度までは堪忍申すべしとて、長助·長八郎兄弟の者物いはず両人取りあはぬにて、猶以て增城源八郎一類きほふて、增城源八を鬼神の様に取りなす、又長沼長介·長八兄弟にあふては源八少しも余儀なくいたし、かげにてはあしく申す故大きに此事ひろまる、
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『甲陽軍鑑』品第四十七もとよりあひても剛の者、如形はたらきて兄弟の者共四人のすけても皆手疵をかうふるといへども、おもひ入りける事なれば、終にうちすますおとこの長八六ケ所手負、何れめしつかふ者どもゝ、三ケ所よりうちに手おふたるはなし、其中に增城源八八ケ所手を負て敵両人の内、柳ノ介·源八が伐りたるにてころぶ、其後甲州より迎ひ来りてつれて帰る、皆手を養生して、主共六人ながら其年中に疵なをりてよし、長介·長八内の者両人ながらその塲にて死す、すけ手の内、飯室喜蔵内の者六ヶ所ふかく手負ひたる故に国へ帰り死す、
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『甲陽軍鑑』品第四十七扨て上下の批判に、信玄公御弓矢巳の時にてまします故、かやうにつよき敵討なり、本人の事は申すに及ばず、すけ手四人の人々剛の者共かなと諸人批判なり、親の敵討なれば公儀より崇もましまさず、增城源八·飯室喜蔵·太郎義信公の衆也、長沼長介·同長八·石田長蔵·矢崎新蔵四人は又被官なれ共、此手抦にて信玄公御意をもつて義信公の衆になさるゝ、長沼長介·長八郎を信玄公御覧なさるゝ度に御詞をかけ給ふ、
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『甲陽軍鑑』品第四十七扨又志村金ノ助·むかさ与一郎公事終て翌日に諸侍へ二十人衆をもつてあひふれらるゝ、其趣きは、今度むかさ与一郎を逆心の科ほど申しつくる事は、彼のむかさ男武士道不穿鑿の科なれば、以後又かやうのさたにては、よき侍をあしういひ、あしき侍をほめたて、ひいき〳〵のさほうにては信玄が家の侍、大小共に善悪同事にて、よき武士も悉く勇なうして、第一は軍法見だりなるべし、軍法あしければ晴信勝利を失ふ事疑ひ有るまじ、勝利を失ふ事疑ひなければ、件のむかさ与一郎は晴信ほこさきの恥有るみなもと也、扨てこそ至て謀叛の科と同前なり、故に如件機ものにあぐると、あひふれさせ給ふなり、
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『甲陽軍鑑』品第四十七殊更增城源八義信公おちの人の甥なる故、是への軽薄にするの勘がへもなく、むざと增城源八手抦と申すにより、そこにて長沼兄弟是非とも討果たすべきとは覚悟いたす、右すけて四人の内、石田長蔵·矢崎新九郎·飯室喜蔵三人の申す様に、尤も其の方兄弟道理千万なり、各々諏訪より只何となく帰り候はゞ、髻をはらふべきこと誓紙をいたして、今かやうに源八申さるれば、此三人の者どもをも定めて兄弟の人疑ひ給ふべし、さりながら源八郎と其方両人はたし給はゞ、此三人をも公儀より御せんさくつよからん、又貴殿両人も源八をきりころしてあるならば、