甲陽軍鑑 / 品第四十
右の俵藤太が子孫は近江國日野の蒲生が一黨是也、今近江國に蒲生忠三郞と云ふて利口なる若者あり、是又三河の家康などに少し相似たる武士にて、江州にも淺井備前守にづきて、此忠三郞心ばせ有るときく、彼の蒲生が家は一代弱く一代强し、子細は王威を以て將門公をうつ、將門も名大將なる故是を討つ罰あり、
新字:右の俵藤太が子孫は近江国日野の蒲生が一党是也、今近江国に蒲生忠三郎と云ふて利口なる若者あり、是又三河の家康などに少し相似たる武士にて、江州にも浅井備前守にづきて、此忠三郎心ばせ有るときく、彼の蒲生が家は一代弱く一代强し、子細は王威を以て将門公をうつ、将門も名大将なる故是を討つ罰あり、
書き下し
右の俵藤太が子孫は近江国日野の蒲生が一党是也、今近江国に蒲生忠三郎と云ふて利口なる若者あり、是又三河の家康などに少し相似たる武士にて、江州にも浅井備前守にづきて、此忠三郎心ばせ有るときく、彼の蒲生が家は一代弱く一代强し、子細は王威を以て将門公をうつ、将門も名大将なる故是を討つ罰あり、
現代語訳
右の俵藤太の子孫は、近江国日野の蒲生が一党これである。今、近江国に蒲生忠三郎と言って利口な若者がある。これはまた三河の家康などに少し相似た武士にて、江州にも浅井備前守に次いで、この忠三郎は心ばえがあると聞く。かの蒲生が家は一代弱く一代強し。子細は、王威をもって将門公を討つ。将門も名大将であるゆえに、これを討つ罰がある。
解説
蒲生の家は代ごとに強弱が入れ替わると見る。理由づけが、先祖が将門を討った功と罰の両方だという。手柄を立てたその同じ行いに罰も伴っていて、それが家に交互に出るという説明になっている。手柄を立てたその同じ行いに罰も伴っていて、それが家に交互に出るという説明になっている。強弱が代ごとに入れ替わるという見方である。
この章句が説くこと
蒲生将門俵藤太罰家強弱
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